序文・隻眼の伊達政宗
堀口尚次
伊達政宗は、出羽国〈山形県〉と陸奥国〈宮城県・福島県〉の武将・戦国大名。伊達氏の第17代当主。近世大名としては、仙台藩〈宮城県・岩手県南部〉の初代藩主である。
伊達政宗が「独眼竜」のあだ名で呼ばれるのは、江戸時代後期の儒学者・頼山陽の賦した漢詩にまで遡る。山陽の没後、天保12年に刊行された『山陽遺稿』に収められた「詠史絶句」15首の一つに、政宗に題をとったものがある。天保元年の作とされている。
「独眼龍」は、もともと中国の唐王朝末期、各地に割拠した軍閥の首領の1人で、その中でも軍事的に最強と謳われた李克用(りこくよう)の綽名(あだな)である。例えば『資治通艦(しじつがん)』巻第255に「諸将みなこれを畏る。克用一目微眇なり。時人、これを独眼龍と謂う」とある。ただし、漢字の「眇」には「片方の目が見えない」という意味と「一方の目が他方よりも小さい」という意味とがあり、李克用がどちらであったかははっきりしない。隻眼(せきがん)の伊達政宗をあえて李克用になぞらえたのは山陽の詩的独創に属する。
政宗の肖像において、天然痘で失明した右目は白濁して見開いており、健全な左目はより大きく見開いている。政宗の生前の希望に従い、右目を黒く描く肖像もある。また、「たとえ病で失ったとはいえ、親より頂いた片目を失ったのは不孝である」という政宗の考えから、死後作られた木像や画にはやや右目を小さくして両目が入れられている。
片目の像として著名なものとしては、松島の瑞巌寺に秘蔵されている伊達政宗像がある。この像は、承応元年、政宗の17回忌にあたり、真影の滅びるのを憂えた夫人陽徳院が京都の仏師に命じて作らせ、瑞巌寺に安置させたものである。
政宗が登場するフィクションなどでは眼帯をつけているものが多いが実際には現実にある各種の記録には目を覆った様子はない。政宗役の俳優が演技時に刀鍔(つば)型をした眼帯などで右目を覆う慣習は、古くは1942年の映画『獨眼龍政宗』において始まっている。1959年の映画『独眼竜政宗』では、豊臣秀吉の送った暗殺団の矢を右目に受けて重傷を負った設定とされている。