ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1142話 勤皇博徒・日柳燕石

序文・勤皇の志士たちを助けた

                               堀口尚次

 

 日柳燕石(くさなぎえんせき)〈文化14年 - 慶応4年〉、江戸時代末期の志士。讃岐国那珂郡子松郷榎井村字旗岡〈現・香川県仲多度郡琴平町〉の出身。幼名長次郎のち耕吉、諱は政章、字は士煥、号は燕石

 父は加島屋惣兵衛が五十七歳、母は幾世が三十八歳の時の子である。幼少時代から気が鋭く、伯父の石崎近潔に学び、その後13歳で琴平〈松尾村〉の医師・三井雪航に学んだ。三井雪航や岩村南里に経史・詩文、奈良松荘に国学・歌学を学んだ。詩文に天賦の才を持ち書画をよくした。

 当時の榎井村は幕府直轄地で、豪商・豪農が軒を並べており、その財力や文化程度は高く、また隣の松尾村の街には、江戸、上方をはじめ全国各地から金毘羅大権現松尾寺に参詣客が訪れてくるため、当時最先端の情報が集まっていた。そのような環境の下、加島家という豪農で育った燕石は、幼いときから儒学の勉強に励み、14歳頃までには四書五経を読破した。

 反面、侠気をもって知られ、21歳で父母に死別したのちに家督を相続して詩作に興じ33歳頃まで遊俠したことで、千人を超える郷党浮浪の徒の首領となり、博徒の親分としても知られていた。また勤王の志が非常に厚く、天下の志士と交わり国事のために私財を投げ出して尽力した。勤王博徒と呼ばれる所以である

 伝説・日柳燕石より『清水の次郎長、ある年金毘羅参りのことあり、帰途、榎井はその頃侠名を謳われる日柳長次郎の在所の事をかねて聞き及んでいたから、これを訪ねて一夕袁彦道(えんげんどう)〈博打の異名〉を試みんと思い、たまたま路傍に草を刈る農夫に「音に聞こえる日柳長次郎の家はどこか」と尋ねた、農夫と見えた男は答えて、「その長次郎は、この俺じゃ、お前さんは誰か」清水の次郎長、驚いて改めてよくよく見れば、薄痘痕(うすあばた)があって風采のあがらぬ小男であるが、悠揚迫らざるうちに精悍(せいかん)の気が眉宇にあふれ、これぞ讃岐の大侠燕石その人なるを知り、仁義の事あり、慇懃(いんぎん)にその来意を告げた。 燕石、すなわち帯にしていた荒縄を割いて長短を作り、これにて直ちに勝負を決せんと言い、次郎長懐中より百金を出して賭けた。燕石嚢中(のうちゅう)無一物、 負けたら命を投げ出す覚悟と見えた。天は燕石に幸いして、この勝負、次郎長の敗となったが、さすがの清水も燕石の大胆さには舌を巻いて驚いたという。』