序文・街道の繁栄と衰退
堀口尚次
大平宿(おおだいらじゅく)は、長野県飯田市に存在した宿場町である。中山道と三州街道〈伊那街道〉を結ぶ大平街道のほぼ中間地点、標高1150mの大平高原と呼ばれる山中のわずかな平地に建物が点在している。
大谷街道は、江戸時代中期〈宝暦4年〉、伊那谷と中山道の妻籠宿を結ぶため、飯田藩によって建設された街道である。それまで木曽谷へ行くには、伊那市の権兵衛街道を経て奈良井宿へ行くルートしかなく、木曽山脈を南へ大きく迂回しなければ妻籠宿へ行くことができなかった。この街道の開通により、最短距離で妻籠宿へ行くことが可能となった。
大平街道が開通したことにより、木地師の大蔵五平治と穀商人の山田屋新七が、信濃飯田藩から許可を得て開墾したことに始まる。五平治は炭焼きを中心とした林業のため、新七は飯田-木曽間の穀物流通を進めるため、木曽地域の百姓数家族とともに大平を開墾した。また、大平街道の安全を図るため、街道の改修工事なども積極的に行った。
その後、飯田藩により大平街道の通行を命じられた者や元善光寺参りの参拝者が滞在するようになり、文化年間には茶屋宿として栄えた。明治になると、大平第三番小学正道学校や大平郵便局も設置され、長野県南部と周辺都市との交通や物流の要所となった。明治42年、木曽に中央本線が全線開通すると最盛期を迎え、戸数70を超える賑わいを見せた。しかし、大正12年に伊那電鉄が飯田まで開通すると、それまで大平宿を通って中央線を利用していた人々が減少し、さらに昭和30年代に清内路(せいないじ)村〈現・阿智村〉の清内路峠を越える国道256号が開通すると大平街道の交通や物流は減少の一途を辿った。また、高度経済成長によるエネルギー需要の変化により村の中心産業であった林業〈炭焼き〉が成り立たなくなり、昭和35年の戸数は全盛期の半数以下の38戸にまで減少した。昭和45年、住民の総意として集団移住を決定し、同年11月末、大平宿は約250年の歴史に幕を下ろした。
【私見】因みに明治時代に、中山道の妻籠宿側から大谷街道改修工事を請け負った者の中には、筆者の地元愛知県知多郡出身の出稼ぎ土木工事人「黒鍬」が数人いたが、土石流により22名が犠牲となっている。現場には墓標もないが、言い伝えでは地元木地師らのお墓の近くに埋葬されたともいわれている。
