堀口尚次
柴田勝家は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。織田氏の宿老であり、主君・織田信長に従い、天下統一事業に貢献した。
大永2年『張州府誌』によると尾張国愛知郡上社(かみやしろ)村〈現・愛知県名古屋市名東区〉で生まれる。生年には大永6年説や大永7年説もあり、明確ではない。出自は不明で柴田勝義の子といわれるが、確実な資料はない。おそらく土豪階層の家の出身であると思われる。
ある時、信長が勝家を常任の先陣大将に任じようとすると勝家は辞した。信長はさらに強いて大将にした。その後、安土城下で勝家の隊の行列に信長の旗本が衝突、勝家はこの旗本を無礼と殺した。これに信長は激怒したが勝家は「故に拙者は先に辞退したのです。先陣の大将たる者にはそれほどの権威を持たせて下さらねば務まるものではございませぬ」と答え、信長もこの勝家の道理には負けて言葉を返せなかったという〈『常山紀談』〉。
武骨の性格で、その秀でた武勇から鬼柴田と呼ばれ、江戸中期の随筆『翁草』の小唄の1節に秀吉らとともに、勝家は戦場における突進力では随一という意味でかかれ柴田と評されている。土一揆の刀を没収し、それらを鋳潰して、鉄の鎖を製り、舟をつなぎあわせて、九頭竜川に舟橋をこしらえ、秀吉の刀狩りの先鞭をつけた。知恵柴田の逸話がある。
勝家の最期は、『毛利家文書』とそれに所収された秀吉書状に、このように描かれている。『〈4月〉24日寅の刻〈午前4時〉に本城に取り掛かり正午には乗り入りことごとく首をはねた。天主には勝家以下200人あまりが立て籠もり、狭いので総員なら手負い死人が出るので、選んだ兵で刀剣、槍だけで天主内に切り入らせた。勝家も武辺の者だが7度まで切り闘ったが防げなかった。天主の最上の九重目に登り上がり、総員に言葉をかけ、勝家が「修(しゅ)理(り)〈形式の官職名〉の腹の切り様を見て後学にせよ」と声高く言うと、心ある侍は涙をこぼし鎧の袖を濡らし、皆が静まりかえる中、勝家は妻子などを一刺しで殺し、80人とともに切腹した。寅の下刻〈午後5時〉だった。勝家は十字切りで切腹し〈最も正式の切腹の作法〉、侍臣の中村聞荷斎〈文荷斎〉を呼び介錯させた。これに殉死するもの80余人。聞荷斎はかねてから用意した火薬に火をつけ、天主とともに勝家の一類はことごとく亡くなった。』

※筆者撮影