序文・明治天皇を慕い殉死
堀口尚次
乃木希典(まれすけ)〈嘉永2年 - 大正元年〉は、日本の陸軍軍人。日露戦争における旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇を慕(した)い、あとを追って殉死したことでも知られる。最終階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。明治天皇より第10代学習院長に任じられ、迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王〈昭和天皇〉の教育係も務めた。人々より「乃木大将」や「乃木将軍」と呼ばれて深く敬愛され、「乃木神社」や「乃木坂」にも名前を残している。
明治の西南戦争時に、大日本帝国陸軍・歩兵第14連隊長心得〈代理〉の乃木は主力の出発が遅れたうえに強行軍を重ねていたため、薩軍との戦闘に入ったときに乃木が直率していた将兵は200名ほどに過ぎなかった。これに対して乃木を襲撃した西郷軍は400名ほどだった。乃木は寡兵(かへい)〈少ない兵〉をもってよく応戦し3時間ほど持ちこたえたが、乃木はこの薩軍を応援の政府軍主力を迎撃に出た薩軍の前衛と考え、連隊だけでこれらを突破して熊本城に入城するのは困難と判断。現在地の死守も地形的に難しく各個撃破される恐れがあったので、午後9時頃後方の千本桜まで随時後退することとした。その際に、連隊旗を保持していた河原林雄太少尉が討たれ、薩軍の岩切正九郎に連隊旗を奪われてしまう。薩軍は乃木隊から奪取した連隊旗を見せびらかして気勢を上げたという。
4月18日、乃木は薩軍の包囲から解放された熊本城に入城、22日付で中佐に進級する。乃木は連隊旗喪失を受けて官軍の実質的な総指揮官であった山縣に対し、17日付けの「待罪書(たいざいしょ)」を送り厳しい処分を求めた〈連隊旗を聖視するようになったのは、西南戦争から日露戦争を経て多くの激戦を経験してからであり、創設まもない当時はまだ連隊旗を神聖視する風潮はなかった〉。この時乃木は、自責の念を抱いて幾度も自決を図ろうとし、熊本鎮台参謀副長だった児玉源太郎少佐が自刃しようとする乃木を見つけ、乃木が手にした軍刀を奪い取って諫めたという。
乃木は、いくつかの遺書を残した。そのうちでも『遺言条々』と題する遺書において、乃木の自刃は西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償(つぐな)うための死である旨を述べ、その他乃木の遺産の取扱に関しても述べていた。



※石像は筆者撮影