序文・鉄砲傭兵
堀口尚次
鈴木孫一は、雑賀衆(さいかしゅう)、雑賀党鈴木氏の棟梁や有力者が代々継承する名前。雑賀孫一や平井孫一〈平井は孫一の居所〉という名でも知られる。表記ゆれとして「孫市」の名も知られる。孫一やその一族のことは分かっていないことが多く諸説ある。
戦国期から江戸時代にかけての文献には紀州雑賀衆の孫一〈雑賀孫市〉の記述がみられる。石山合戦において雑賀衆を率いて石山本願寺へ入り、織田信長の軍勢を苦しめたとされる。この人物については、石山合戦で討ち死にしたとする説、秀吉の雑賀攻めのときに藤堂高虎に謀殺されたとする説、小田原征伐でも鉄砲頭として戦い生涯を終えたとする説、関ケ原の戦いで石田方について戦後水戸藩に仕官したとする説などがある。
雑賀衆は、中世の日本に存在した鉄砲傭兵・地侍集団の一つである。また、史料に見られる「惣国(そうこく)」と同じと考えられているため、「紀州惣国」もしくは「雑賀惣国」とも呼ばれている。雑賀衆は紀州国北西部〈現在の和歌山市及び海南市の一部〉の「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷〈中川郷〉」「南郷〈三上郷〉」「宮郷〈社家郷〉」の五つの地域〈五組・五搦などという〉の地侍達で構成されていた。高い軍事力を持った傭兵集団としても活躍し、鉄砲伝来以降は、数千挺もの鉄砲で武装した。また海運や貿易も営んでいた。
雑賀衆を構成した主な一族としては、雑賀荘の土橋氏、十ヶ郷〈現和歌山市西北部、紀ノ川河口付近北岸〉の雑賀党鈴木氏などが知られている。
雑賀衆は、15世紀頃に歴史に現れ、応仁の乱の後、紀伊国と河内国の守護大名である畠山氏の要請に応じ近畿地方の各地を転戦、次第に傭兵的な集団として成長していった。紀ノ川河口付近を抑えることから、海運や貿易にも携わっていたと考えられ、水軍も擁していたようである。種子島に鉄砲の製造法が伝来すると、根来衆(ねごろしゅう)に続いて雑賀衆もいち早く鉄砲を取り入れ、優れた射手を養成すると共に鉄砲を有効的に用いた戦術を考案して優れた軍事集団へと成長する。「雑賀衆」という言葉の史料上の初出は、本願寺の蓮如の子である実従の「私心記」1535年6月17日条であり、「雑賀衆三百人計」が大坂本山に来援した、とある。そしてこの翌年2月には証如からこの時の活躍について感謝状〈『本願寺文書』〉が出されている。