序文・西南戦争のつけ
堀口尚次
竹橋事件は、明治11年、竹橋付近に駐屯していた大日本帝国陸軍の近衛兵部隊が起こした武装反乱事件である。竹橋騒動、竹橋の暴動とも呼ばれる。動機は、西南戦争における財政の削減、行賞についての不平であった。大隈邸が攻撃目標とされたのは、彼が行賞削減を企図したと言われていたためである。加えて兵役制度による壮兵制時代の兵卒への退職金の廃止、家督相続者の徴兵の免除なども不満として挙げられていた。
7月上旬、かねてより士官に比べ兵卒の恩賞が極めて少ない事に不満を抱いていた近衛砲兵大隊第2小隊馭卒の長島竹四郎は、同馭卒小島萬助と増給を強請せんと論じた。 続いて彼らは8月上旬、近衛歩兵第2連隊第2大隊第2中隊兵卒の三添卯之助と接触し、近衛砲兵大隊第1小隊馭卒高橋小三郎、小川弥蔵、東京鎮台予備砲兵第1大隊の兵卒らとも接触した。反乱の機運は同予備砲兵第1大隊附内山定吾少尉、下副官梁田正直曹長、第1中隊平山荊火工下長〈一等軍曹相当官〉ら将校下士官も巻き込み、決起の計画が練られた。
近衛鎮台では将校や下士官への不信感から兵卒だけで決起せんとしていたが、東京鎮台予備砲隊では「近頃兵卒は何かと将校を軽蔑する節がある、理非の分別もなく百姓一揆の様な事を起こしては不都合である」との平山火工下長から内山少尉への提案により全隊が決起する予定となり、大隊長の岡本柳之助少佐も決起には絶対反対と言う立場ではなかった。このほか、近衛工兵中隊の第2小隊にも接触が行われているが、彼らは呼応には至らなかった。
内務省の判任官十等属・西村織兵衛は事件の起こる直前の夕方、神田橋の公衆便所で3人の近衛兵が便所の外で叛乱計画の謀議を行っている事を知り、内務省に立ち戻り大書記官武井守正に急を知らせた。この通報により蹶起(けっき)計画は事前に漏れていたのだが、阻止することはできなかった。
後に日本軍の思想統一を図る軍人勅諭発案や、軍内部の秩序を維持する憲兵創設のきっかけとなり、また近衛兵以外の皇居警備組織として門部〈後の皇宮警察〉を設置するきっかけとなった。事件の内容は明治11年の各新聞に時系列を含めて詳細な行動が広く伝えられ、新聞社は号外も出したほどだった。陸軍省も竹橋事件についての発表を行い、各府県に通達し、それを新聞も報道している。近年では、行動の背景に自由民権思想の影響があったとも考えられている。