ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1193話 神戸事件で切腹した滝善三郎

序文・ラストサムライ

                               堀口尚次

 

 神戸事件は、慶応4年1月11日に神戸〈現・神戸市〉三宮神社前において備前藩〈現・岡山県兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、銃撃戦に発展し、居留地現・居留地予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件である。備前事件とも呼ばれる。明治政府初の外交問題となった。

 この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展した。その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎切腹する事で一応の解決を見たが、相前後して堺事件が発生し、共に外国人に切腹を深く印象付けることとなった。

 滝善三郎〈天保8年 - 慶応4年〉は幕末の備前岡山藩士、名は正信。慶応4年2月9日、1ヶ月前に起きた神戸事件の責を一身に背負い、永福寺〈現・神戸市、太平洋戦争にて焼失し現在は同市内の能福寺で供養碑が置かれる〉において外国人検視7名を含む列席が見守る中、弟子の介錯によって切腹した。享年32。

 当時は「切腹」と言っても短刀を腹に当てた時点で介錯が首を落とすとか、さらには短刀の代わりに扇子を使う「扇腹(おうぎばら)」などが一般的だったのだが〈幕末期は本来の作法通りも少なくはなかった〉、ミットフォード〈検死に立ち会ったイギリス外交官〉によると滝善三郎切腹は古来よりの作法に則った形であった様である。ミットフォードは日本の作法についてもよく調べており、滝の切腹の模様を生々しい筆致で書き残している。

 神戸事件大政奉還を経て明治新政府政権となって初めての外交事件である。結果として諸国列強に押し切られる形で滝善三郎という1人の命を代償として問題を解決する形にはなったが、これ以降、明治政府が対外政策に当たる正当な政府であるということを諸外国に示した。また、朝廷がこのときまで唱えていた「攘夷」〈外国を討ち払う〉政策を「開国和親」へと一気に方針転換させた事件でもあった。ただし、この「開国和親」表明は外交団に対するものであり、新政府内にも未だ攘夷を支持する者もいることから、国内に対してはその事実を明確にはしなかった。国内に対する正式な表明は翌年5月28日に行われた新政府の上局会議における決定によるものである。