ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1202話 左衛門少将義経の腰越状

序文・兄弟の確執

                               堀口尚次

 

 腰越状とは、源義経が兄の源頼朝に宛てて認めたとされる手紙。元暦2年5月24日、義経頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを止められて腰越に留まっていたとき、満福寺で心情を綴ったものと伝えられる。この手紙は公文所別当大江広元宛てに書かれ、頼朝へ取り次いでもらったとされるものの、結局義経は鎌倉入りを許されず京都へ引き返すこととなったとされる。

 明治時代初期まで、手習いの教科書として用いられた。以下は『吾妻鏡』巻4からの現代訳。

 「左衛門少尉義経、恐れながら申し上げます。私は〈頼朝の〉代官に選ばれ、勅命を受けた御使いとして朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し、会稽(かいけい)の恥辱(ちじょく)を雪(すす)ぎました〈屈辱を回避した〉。ひときわ高く賞賛されるべき所を、恐るべき讒言(ざんげん)にあい、莫大な勲功を黙殺され、功績があっても罪はないのに、御勘気を被り、空しく血の涙にくれております。つくづく思うに、良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らうと言われています。ここに至って讒言した者の実否を正されず、鎌倉へ入れて頂けない間、素意を述べる事も出来ず、徒に数日を送っています。こうして永くお顔を拝見出来ないままでは、血を分けた肉親の縁は既に空しくなっているようです。私の宿運が尽きたのでしょうか。はたまた前世の悪業のためでしょうか。悲しいことです。

(中略)

我が国は神国であります。神様は非礼をお受けにはなりません。他に頼る所は無く、偏(ひとえ)に貴殿の広大な御慈悲を仰ぐのみです。便宜を図って〈頼朝の〉お耳に入れていただき、手立てをつくされ、私に誤りが無い事をお認めいただいて、お許しに預かれば、善行があなたの家門を栄えさせ、栄華は永く子孫へ伝えられるでしょう。それによって私も年来の心配事も無くなり、生涯の安穏が得られるでしょう。言葉は言い尽くせませんが、ここで省略させて頂きました。ご賢察くださることを願います。義経恐れ謹んで申し上げます。」

 研究では腰越状を掲載している『吾妻鏡』の記述に多くの疑問が指摘され、義経が本当に腰越で留め置かれたのかという事実関係を含め、腰越状の真偽が問われている。文面についても、様式や文言など、当時の普通の披露文などとは異なっていて、後世の偽文書であるとの見方が大勢を占めている。