序文・かつての流刑地
堀口尚次
喜界島(きかいじま)は、鹿児島県の離島で、鹿児島市と沖縄本島の間に連なる奄美群島内で最も北東部に位置する。鹿児島県大島郡喜界町に属し、人口は7千人弱。喜界島南部の先山遺跡から、約6000年前の縄文時代前期にあたる条痕文土器などが出土しており、その頃から島に人が定住していたとされる。
古代〈平安時代〉には大宰府と密接に繋がっていたことが、文献上記録されている。『日本紀略』長徳4年の記述として、大宰府が貴駕島〈喜界島〉に対して、暴れ回っている南蛮人を捕えるように命じている〈南蛮賊〉。ここで記述されている「南蛮人」とは、西に位置する奄美大島の島民を指しているものと『小右記』長徳3年の記述から判断されている。また、長徳5年に大宰府が朝廷に対して、南蛮人を追討したと報告しているが奄美群島の中心部から離れた喜界島に拠点が設けられたのは、島に有毒のハブが棲息していないことが理由の一つではないかと見られている。
江戸時代に薩摩藩重臣にあて『薩摩経緯記』を著した佐藤信淵は、喜界島・屋久島・種子島の島民気質について「豊かになろうと心がける気持ちが弱く、産業に励む者は希」としつつも、島の経営方針について「島民は愚昧であるが誠実をもって教化し、よく島民に勉強を勧めて物産を多く産出させるべき」と説いている。
平安時代から中世にかけて流罪の島として存在した鬼界ヶ島をこの島に比定する説が古くから唱えられているが、喜界島は『平家物語』に記述された様な火山島でなく高山もないなど記述との齟齬があることから硫黄島とする説も有力視されており疑問が多いが、島内には『平家物語』において鬼界ヶ島に流された逸話で知られている俊寛の像が建てられている。江戸時代には薩摩藩の遠島先の一つとして確かに使われている。
鬼界ヶ島(きかいがしま)とは、平安時代末期の治承元年の鹿ケ谷の陰謀により、俊寛、平康頼、藤原成経が流罪にされた島。延慶本『平家物語』では「鬼界嶋」のほか「鬼海嶋」「流黄嶋」「油黄嶋」などの表記もみられる。古代日本人は屋久島と口之島の間に国境の意識をもっていたともいわれ、「鬼界島」は「果てしなく遠い絶海の孤島を表現する一般的島名」とする見方もある。広義には南島諸島の総称として用いられ、鎌倉時代以後は十二島として薩摩国河辺郡に属した。