序文・論功行賞の証
堀口尚次
首実検とは、前近代、配下の武士が戦場で討ちとった敵方の首級(しゅきゅう)の身元を大将が判定し、その配下の武士の論功行賞の重要な判定材料とするために行われた作業。本当に申告した本人の戦功かどうかの詮議の場でもあった。夏期においては穂垂首(ほたれくび)〈損傷の著しい首〉は軍監による確認に止め、大将には見せない場合もあった。
大将や重臣が、討ち取ったと主張する者にその首を提出させ、相手の氏名や討ち取った経緯を、場合によっては証人を伴い確認した上で戦功として承認する。首級の確認は、寝返りした、または捕虜となった敵方に確認させることもあった。
呼称としては、敵の大将、貴人の検分は対面、歩兵の雑兵らに対するものを見知といい、「首実検」とは物頭や諸奉行クラスの騎馬武者の首のみを検分〈実検〉することである。 しかし広義には、首の検分の総称として「首実検」という語が使用されているのである。
首実検の前には、武士の婦女子により首に死化粧が施された。武士は自身の首は敵将に供せられることを覚悟し常日頃身だしなみに気を使った。武士が薄化粧をしたり香を施すことは軟弱とは見なされなかった。 伊勢貞丈〈江戸時代中期の旗本〉『軍礼抄』に、「首を水にて能く洗ひ、血又は土などを洗ひ落し、髪を引きさき、もとゆひに髻を高くゆひ上ぐべし。もし、かねつけおしろいべになどつけたる首ならば、其の如くにこしらへべし、顔に疵付きたらば米の粉をふりかけて、疵をまぎらかす也、紙札に首の姓名を書いて付くる也」とある。
髪は普通時よりも高く結い上げ、髪を結うにははじめから水を付け、右から櫛をつかい、櫛(くし)の「みね」で立て、元結いを櫛で4度たたいて結いおさめる。普段、櫛の「みね」を髪に当てることを忌みきらうのは、ここからきたものである。歯を染めてある首には、「かね〈お歯黒〉」をつける。
首は、実検ののち、捨てることも、獄門にかけることも、首桶にいれて敵方に送ることもある。
天正2年の正月、織田信長は浅井久政・長政父子と朝倉義景の3人の首〈頭蓋骨〉を薄濃(はくだみ)〈頭蓋骨を漆で固め金泥などで薄く彩色したもの〉にしたものを酒宴で披露した逸話が有名。