序文・宗教と国家の関わり
堀口尚次
江戸時代の日本では、幕府が仏教の寺社勢力に介入統制し支配に利用する方針が徹底され、仏教は民衆の教化のみ役割を担わされ宗論は厳しく制限された。儒教と神道の習慣は尊重され、神道のなかで論じられた廃仏論は明治初期の廃仏毀釈運動に影響を与えた。またキリスト教は厳しく弾圧された。
明治元年、神仏分離令が出され、廃仏毀釈が起こる。また「五榜の掲示」にキリシタン禁制とあるのが確認される。1869年に設けられた公議所の議論で、神道の国教化路線が決定され、神道に関する神祇官は太政官から独立したが、1871年には神祇省に格下げされ1872年には神祇官が廃止され、教部省が新たに仏教・神道ともに管掌することとなった。
国民を教化する職責として教導職制度が設置され、教導職の教育機関として大教院が設置された。しかし1872年、浄土真宗本願寺派の島地黙雷は三条教則批判建白書を提出し、1875年1月には真宗4派が大教院離脱を内示するなど紛糾し、同5月に大教院は解散した。
1874年には仏教・神道の中での宗派選択の自由が、1875年には信教の自由が保障された。1882年に内務省通達により、神社は宗教ではないとされた〈神社非宗教論〉。1889年、大日本帝国憲法第28条で「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と記載された。
しかし、昭和期に入って、日本国内で国粋主義・軍国主義が台頭すると、神道は日本固有の習俗として愛国心教育に利用され、神道以外の宗教に顕著な圧迫が加えられるようになった。神道以外の信仰を持つ生徒・学生であっても靖国神社への参拝を義務づけたため、1932年には上智大学の学生が靖国神社参拝を拒否するという事件〈上智大生靖国神社参拝拒否事件〉が発生した。これに対してカトリック教会は1936年『祖国に対する信者のつとめ』を出し、大日本帝国政府の方針にしたがうべきことを表明した。
第二次世界大戦後の1945年、GHQにより神道指令が出され、国家神道は廃止され、日本国憲法では政教分離が実現されている。