序文・武蔵と小次郎
堀口尚次
巖流島は、山口県下関市・関門海峡に在る島〈無人島〉。正式名称は船島。所在地は「山口県下関市大字彦島字船島648番地」。
宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘〈巌流島の戦い〉が行われたとされることで著名となっている。決闘が行われたとされる当時は豊前小倉藩領の船島であったが、小次郎が「巖流」〈「岩流」とも〉を名乗ったことから巖流島と呼ばれるようになった。
武蔵と小次郎が決闘を行った日時は、『二天記』〈安永5年〉によると慶長17年4月13日に行なわれたといわれるが、それより半世紀前に書かれた立花峯均による『丹治峯均筆記』〈享保12年〉には武蔵19歳のときとあり、決闘時期には諸説あって実際は不明である。
かつてはすぐ隣に岩礁があり、難所として恐れられていた。豊臣秀吉も名護屋から大坂への帰路の途中でここで乗船が座礁転覆し毛利水軍によって助けられたといわれている。このとき船と運命を共にした船長の明石与次兵衛の名を取り、江戸時代には「与次兵衛ヶ瀬」と呼ばれていた。岩礁は大正年間、航行する船舶の増加と大型化の障害となるため爆破されたが、この部分もあわせて三菱重工業によって埋め立てられた。その結果、島の面積は武蔵と小次郎が決闘の時と比べて約6倍の10万3千平方メートルに広がった。明治中期にはコレラ患者の医療施設が立地していた。
第二次世界大戦の前から周辺が日本軍の下関要塞地帯となり、撮影はもちろん、小型カメラすら向けることは禁止された。この軍による規制は非常に厳しく、昭和10年の吉川英治の連載小説『宮本武蔵』では、石井鶴三の描いた巖流島の挿絵に「下関要塞司令部許可済」との文言が添えられていたほどである。よってこの時期の島の風景写真は残っていない。武蔵の映画が多数製作されても、ロケはもちろん許可されなかった。
戦後、島に移住者があり一時は30世帯に達したが、のち再び減少し昭和48年には無人島に戻った。島にはタヌキが生息しており、彦島から渡ってきたのではないかといわれている。