序文・浅野内匠頭長矩の小姓
堀口尚次
片岡高(たか)房(ふさ)〈寛文7年 - 元禄16年2月4日〉は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。赤穂藩では側用人・児小姓頭をつとめ、浅野内匠頭長矩から最大の寵愛を受けた。通称は、はじめ新六、のちに源五右衛門と称した。
寛文7年、尾張藩徳川家の家臣・熊井重次〈知行300石御蔵米120石〉の長男として名古屋に生まれる。生母が側室であったため、寛文10年に正室の子である熊井次常が生まれると、嫡男たる地位を奪われた。高房は弟ながら正室の子である次常に対しては「兄上」と呼ばされたといわれる。なお他にも熊井重康、熊井重長など弟2人、妹2人がいる。
延宝2年、親戚の赤穂藩士・片岡六左衛門〈知行100石〉に養子に入った。父・熊井重次の弟・長左衛門の娘が片岡六郎左衛門に嫁いでいたという関係にあったためである。
延宝3年、養父・六左衛門が死去したため、9歳にして片岡家100石の家督を相続。この年のうちから小姓として浅野長矩の側近くに仕えている。長矩とは同い年であったこともあり、非常に気が合ったようである。また長矩からの信任が深かったため、長矩とは男色の関係にあったともいわれた。
元禄16年2月4日、幕命により、切腹。介錯人は細川家家臣の二宮久重。享年37。主君浅野長矩と同じ高輪泉岳寺に葬られた。戒名は刃勘要剣信士。
長男の新六は、同年5月に出家したため、次男・六之助は当時九歳〈のち出家〉で連座を免れた。妻〈八嶋惣左衛門の娘〉や妹二人は生活苦にあえいだと伝わる。また、娘・るいは尾張浪人の大叔父・熊井長左衛門が引き取り、津金善次右衛門の妾となった。
この縁と生誕地であることから、名古屋中区の乾徳寺にも片岡の墓が置かれた。この墓は明治維新を経て荒廃したものの、昭和21年、同市に設置された墓地整理委員会の指導により、名古屋市千種区の平和公園に移して再設置されている。
切腹の副検死役である多門重共〈幕府目付〉が記した『多門筆記』によると、高房は最期に一目浅野長矩と会うことができたとされている。 長矩が切腹の坐に向かうときに、高房〈源五右衛門〉が庭先にひかえて涙ながらに無言の別れをする場面は、『忠臣蔵』を題材にしたドラマなどではよく描かれている。
