ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1236話 新選組の生き残り・中島登

序文・波乱万丈の人生

                               堀口尚次

 

 中島登(のぼり)〈天保9年 - 明治20年〉は、新選組隊士〈伍長〉。天保9年、武州多摩郡小田野〈現在の東京都八王子市西寺方町〉の農家に長男として生まれる。幼名は峯吉、後に登一郎。父は中島亦吉、母は中島イチ。

 安政3年、19歳で天然理心流・山本満次郎に入門。安政4年、同郷の安藤マスと結婚。長男・歌吉が生まれる。その後、八王子千人同心に所属したが、同僚の1人と衝突して斬殺した為、親戚家に逃れる。

 元治元年、新選組に入隊。近藤勇の命で武州甲州・相模の地理調査等を秘密裏に行っていたといわれる。慶応3年、新選組伍長に就任。慶応4年、流山で近藤が新政府軍に投降した際には、同行役の薩摩藩士・有馬藤太を追尾したが、監視は厳しく虚しく帰った。

 土方歳三島田魁ら数名の新選組隊士らと共に、大鳥圭介旧幕府軍と合流して宇都宮の戦い・日光口の戦い・会津戦争に転戦〈は、会津戦争で重傷を負った彰義隊隊士・大島清慎を救護所まで運んだと言う〉。仙台で更に榎本武揚ら旧幕府海軍と合流して蝦夷地へ渡る。箱館戦争では弁天台場第2分隊嚮導(きょうどう)役となった。

 明治2年5月15日、降伏。弁天台場で謹慎後に青森に送検され、同6月9日に弘前藩、7月21日、青森へ戻り、3ヶ月謹慎。10月24日、弁天台場に戻り、約5ヶ月謹慎した。明治3年5月上旬、静岡藩お預けになり、中旬には赦免。多摩に帰還する。

 静岡藩の開墾に尽力し、自分の田地を人々に譲渡した。また、浜松にて元彰義隊隊士、当時浜松裁判所・登記所代書だった大島清慎と再会している。浜松に定住し、明治12年、長男・登一郎を浜松に呼び寄せる。明治15年、魚屋沢木半平の長女・ヨネと再婚している。

 この頃は商売をいくつか始めており、はじめ旧幕臣と協力して質屋を経営するが失敗する。明治14年、趣味で栽培していた葉蘭に偶然新種が誕生し、品評会にて「金玉廉」と名付けられて爆発的な売れ行きとなるが、馬が親株を食べてしまった為商売終了。明治17年には「鉄砲火薬売買人」免許を取得し、中島鉄砲火薬店を開業した。

 明治20年、浜松にて死去。享年50。