序文・ゲリラ討伐
堀口尚次
マニラ大虐殺は、マニラの戦い 〈1945年〉において発生したとされる虐殺事件。日本軍による虐殺と、アメリカ軍の砲撃による犠牲者が多数発生し、最終的なマニラでの一般市民の犠牲者は10万人を超えるとされている。戦後マニラ軍事裁判において軍司令官山下奉文・陸軍大将が、極東国際軍事裁判において参謀長武藤章・陸軍中将が責任を問われ有罪となった。
マニラにアメリカ軍が近づく前に、マニラ市内には外部から多数のゲリラが潜入して日本軍への攻撃を開始していたが、フィリピンゲリラは一般市民と同じような服装をしており、日本軍には一般市民とゲリラの区別が困難となっていた。ゲリラはアメリカ軍と戦闘している日本兵の背後に忍び寄って撲殺するなどアメリカ軍の支援を行ったり、マニラ市内に取り残されていた日本人住民を惨殺する“日本人狩り”を行った。アメリカ軍とフィリピンゲリラに挟撃される形となった日本軍の各部隊は、ゲリラ討伐としてフィリピン人の虐殺を行った。このようにゲリラ討伐を目的としたフィリピン人虐殺は、日本軍が組織的に計画して実行したものであるが、その命令は軍司令官でも師団長でもなく、歩兵第17連隊の様な地方分遣隊の将校によって決定されたものであった。
結局、このマニラでの虐殺行為の責任は軍司令官の山下が負わされることとなった。マッカーサーはフィリピン人の日本人に対する復讐心を満足させ、アメリカの寛大な占領政策を印象づけさせるためと、アメリカ軍のおこなったマニラ破壊の責任を日本軍に転嫁するために山下を裁く必要があると考えた。山下はマッカーサーの意向もあってぞんざいな扱いを受けており、参謀長の武藤章中将が、独房とは言え犯罪者のように軍司令官の山下を扱うことに激高して「一国の軍司令官を監獄に入れるとは何事だ」と激しく抗議したが受け入れられることはなかった。マッカーサーは山下を裁くため、西太平洋合衆国陸軍司令官ウィリアム・D・ステイヤー中将にマニラ軍事裁判の開廷を命じたが、5人の軍事法廷の裁判官は、マッカーサーやステイヤーの息のかかった法曹経験が全くない職業軍人であり、典型的なカンガルー法廷〈似非裁判:法律を無視して行われる私的裁判〉であった。
山下と武藤は、第二次世界大戦後の極東軍事国際裁判でA級戦犯となり処刑された。