序文・起業へ奔走
堀口尚次
奥田正香(まさか)〈弘化4年 - 大正10年〉は、明治時代に活動した日本の実業家。
元は尾張藩の藩士。味噌・醤油製造で財を成し、その後名古屋で多くの有力企業の設立に関与して「名古屋の渋沢栄一」と呼ばれた。名古屋商業会議所〈後の名古屋商工会議所〉の会頭を長く務め、愛知県会議員としての活動歴もある。
奥田正香は弘化4年、尾張国春日井郡鍋屋上野村〈現・愛知県名古屋市千種区〉の和田家に生まれた。幼名は謙之介で、のちに尾張藩士の奥田主馬(しゅめ)に引き取られた。幼少時より学門を好み、丹羽賢と親交を結んで幕末には丹羽に従い国事に奔走した。明治元年、藩校明倫堂の国学助教見習となる。このころ藩命により甲信地方へ勤皇誘引のため遊説に出かけたが、信州の旅館で商人から横浜での生糸貿易の状況を偶然聞いたことが後の財界入りの素地となったという。維新後はしばらく役人生活を送り、明治3年11月から名古屋県〈現・愛知県〉、翌年からは安濃津県〈現・三重県〉に赴任した。
名古屋の周辺で鉄道建設が盛んになり鉄道車両の需要が高まっていたことに着目した奥田は、上遠野富之助の協力の下明治29年7月、資本金50万円で日本車輌製造株式会社を設立し、その初代取締役社長に就任した。同社は設立後まもなく操業を開始。明治末期に赤字に転落するもののまもなく回復し、社業の確立がなったとして奥田は明治43年10月に社長を退任、上遠野が2代目社長に就任した。ところで会社設立にあたり愛知県に提出された会社設立申請書がほぼ同時期に提出された鉄道車両製造所の設立申請書と酷似していた。これについて県が調査した結果、官設鉄道を井上勝と共に辞職していた野田益晴が鉄道車両製造会社の計画を地元の経済界の重鎮である奥田にもちかけたところ、奥田も設立計画をもっており共同で経営してもいいという話となり交渉することになった。ところが株の割当でおりあわず、別々で会社を設立することになったという。奥田の元には上遠野に筆写させていた鉄道車両製造所の設立計画書があり、これを元に設立願書は作成されたという。
2024年11月19日の中日新聞に「名古屋発 起業へ奔走」と題して奥田の言葉が紹介されていた。「自分のもうけや名誉のために、事業をしてるわけじゃない。今の名古屋を見てみたまえ。東京や大阪に比べて、どれだけ遅れていることか。まして世界の大都市に比べたら、お話にならんのじゃないだろうかね」