序文・忠臣蔵の名場面
堀口尚次
片岡高房(たかふさ)〈寛文7年 - 元禄16年〉は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。赤穂藩では側用人・児小姓頭をつとめ、浅野内匠頭長矩から最大の寵愛を受けた。通称は、はじめ新六、のちに源五右衛門と称した。本姓は近江源氏。家紋は瓜の内釘貫。変名は、吉岡勝兵衛。
寛文7年、尾張藩徳川家の家臣・熊井重次の長男として名古屋に生まれる。生母が側室であったため、寛文10年に正室の子である熊井次常が生まれると、嫡男たる地位を奪われた。高房は弟ながら正室の子である次常に対しては「兄上」と呼ばされたといわれる。延宝2年、親戚の赤穂藩士・片岡六左衛門に養子に入った。延宝3年、養父・六左衛門が死去したため、9歳にして片岡家100石の家督を相続。
この年のうちから小姓として浅野長矩の側近くに仕えている。長矩とは同い年であったこともあり、非常に気が合ったようである。また長矩からの信任が深かったため、長矩とは男色の関係にあったともいわれた。
切腹の副検死役である多門重共〈幕府目付〉が記した『多門筆記』によると、高房は最期に一目浅野長矩と会うことができたとされている。長矩が切腹の坐に向かうときに、高房が庭先にひかえて涙ながらに無言の別れをする場面は、『忠臣蔵』を題材にしたドラマなどではよく描かれている。
それによると、高房は「最期に一目我が主にお目通りを」と田村邸の家臣達に懇願したが、このことを田村建顕が、正検死役の庄田安利〈幕府大目付〉に告げ対応を伺ったが、庄田は取り合おうとしなかった。そこへ副検死役の多門と大久保忠鎮が現れ、2人は庄田に「内匠頭に判決を読み渡している内にその者をつれて来なさい。内匠頭と距離をとらせ、刀を持たせず、その者の周りを取り囲んでいれば一目見るぐらいならば問題はない。もしその者が主君を助けようと飛び出したとしても田村家の家臣も大勢いるのだから、取り押さえられないことはないだろう。最後に一目会いたいという願いを叶えてやるのは人間として当然の慈悲であると心得るが、いかがか?」と迫ったところ、庄田は「お好きにされよ」とだけ答えた。ただ片岡に長矩は気付かず、片岡も主君の姿を遠くから見ただけで終わった。
※生まれ故郷である名古屋市にある供養塔