序文・「星崎」という地名の由来
堀口尚次
『尾張名所図会』の付録である『小治田之真清水』には、「星降て石となる」と、南野の塩浜にいた人々の驚いたようすが描かれている。江戸時代の寛永9年午前0時頃、村瀬六兵衛ら数人の人々が塩を焼いていた時の出来事。突然ものすごい音がして、赤熱した隕石が落ちてきた。里人の1人が鉈(なた)を投げつけた。この隕石は「星石」と呼ばれ、塩田庄屋村瀬家にあったが、文政12年喚続(よびつぎ)神社の社宝として保管されて来た。「南野隕石」と命名され、隕石は1.04キログラムあり、昭和51年村山定男さん〈国立博物館〉により鑑定され、当時は日本最古だったが、現在は日本で2番目に古い隕石となっている。
また、南野隕石以外にも落下した記録が残っており、星崎〈名古屋市南区南野〉の地名の由来とする説もある。
喚続神社の創建は大永3で、天照大神などをお祀りしている。石柱の「喚續神明社」という名前の通り、お伊勢さんと同じ神明造りで建てられている。縁起によれば、「神社西の海岸堤防が何度も決壊し、お伊勢さんに1万回のお祓いをしてもらったところ、神徳があって堤防が完成した」とのことで、神社はそのお伊勢さんの方を向いて建てられている。
江戸時代の寛永9年の旧暦8月の深夜に塩田で塩造りをしていると、突然、隕石が空から降ってきたという。落ちた「星石」は、庄屋さんの家に保管されていたが、文政12年にこの喚続神社に寄進され、同社のご神体となり、今に至っている。写真などで見ると重量約1kg、大きさは約14㎝×8㎝×7㎝で、落ちた場所の名から「南野隕石」と呼ばれている。
喚続神社の近くにある「星宮(ほしみや)社」も「星」の伝説のある神社だ。社説では舒明(じょめい)天皇9年、「七星が降り、神託があったので社を建てた」という説明がされている。「七星が降り」などという文言を読むと、後から妙見信仰〈北極星または北斗七星を神格化した妙見菩薩の信仰〉が入ってきた可能性も考えられる。星宮社のご祭神は、星の神社にふさわしく、星神・天津甕星(あまつみかぼし)神を祀っている。
境内にある上下「知我麻(ちかま)神社」は、熱田神宮にも同じ名前の神社があるが、その元宮ともいわれている。今は「星宮社」と呼ばれますが、古くからあったのは、この知我麻神社の方かもしれない。というのは、もともとこの辺りは、松巨嶋(まつこしま)と呼ばれた島状の土地で、尾張の古代豪族・尾張氏(おわりうじ)が住んでいた場所といわれているからだ。ここから近い熱田神宮そばの白鳥古墳、断夫山(だんぷざん)古墳などの埋葬者も尾張氏とされ、上知我麻社に祀られる「乎止與命(おとよのみこと)」も同じ尾張氏だ。尾張氏が住んだこの星崎の地は、当時は星がよくみえる風光明媚な岬だったのかもしれない。
星崎の地名は、平安時代の記録にはすでに見えるという。星が落ちた出来事・伝説が、星崎の地名の由来というが、複数あるので年代順に書いて整理すると、
① 637年〈舒明天皇9年〉 七星が下り、神託があって「星宮社」を建てた。
② 935年〈承平5年〉 隕石が落ちた伝承がある。
③ 1205年〈元久2〉5月24日 入江に明星が降りる。
④ 1632年〈寛永9〉 南野隕石落下。
この中の③は注目してもいいかもしれない。日付がはっきりしていることと、海中に落ちたので隕石の回収はできなかったのかもしれまない。なぜ、星崎ばかりに隕石伝説が残るのか不思議だが、こうしてみると、やはり岬の突端で星がよく見えたこと、また、星崎は塩田が盛んで、昼夜関係ない作業の中、流れ星などを目にする機会が多かったのも理由であるかもしれない。