序文・旗本長崎奉行の決断
堀口尚次
フェートン号事件は、文化5年8月、鎖国体制下の日本の長崎港で起きたイギリス軍艦侵入事件。ヨーロッパにおけるナポレオン戦争の余波が極東の日本にまでおよんだものである。
文化5年、ベンガル総督ミントーの政策によりオランダ船拿捕を目的とするイギリス海軍のフリゲート艦フェートン〈フリートウッド・ペリュー艦長〉は、オランダ国旗を掲げて国籍を偽り、長崎へ入港した。これをオランダ船と誤認した出島のオランダ商館では商館員ホウゼンルマンとシキンムルの2名を小舟で派遣し、慣例に従って長崎奉行所の役人、オランダ通詞らとともに出迎えのため船に乗り込もうとしたところ、武装した船員によって商館員2名が拉致され、船に連行された。それと同時に船はオランダ国旗を降ろしてイギリス国旗を掲げ、オランダ船を求めて武装ボートで長崎港内の捜索を行った。
長崎奉行所ではフェートン号に対し、オランダ商館員を解放するよう書状で要求したが、フェートン号側からは水と食料を要求する返書があっただけだった。
オランダ商館長ヘンドリック・ドゥーフは長崎奉行所内に避難し、商館員の生還を願い戦闘回避を勧めた。長崎奉行の松平康英は、商館員の生還を約束する一方で、湾内警備を担当する佐賀藩・福岡藩の両藩にイギリス側の襲撃に備える事、またフェートン号を抑留、又は焼き討ちする準備を命じた。ところが、その年の長崎警衛当番であった佐賀藩が太平に慣れ経費削減のため守備兵を無断で減らしており、長崎には本来の駐在兵力の10分の1ほどのわずか100名程度しか在番していないことが判明する。松平康英は急遽、薩摩藩、熊本藩、久留米藩、大村藩など九州諸藩に応援の出兵を求めた。
翌16日、ペリュー艦長は人質の1人ホウゼンルマン商館員を釈放して薪、水や食料〈米・野菜・肉〉の提供を要求し、供給がない場合は港内の和船及び唐船を焼き払うと脅迫してきた。人質を取られ十分な兵力もない状況下にあって、松平康英はやむなく要求を受け入れることとしたが、要求された水は少量しか提供せず、明日以降に十分な量を提供すると偽って応援兵力が到着するまでの時間稼ぎを図ることとした。
長崎奉行所では食料や飲料水を準備して舟に積み込み、オランダ商館から提供された豚と牛とともにフェートン号に送った。これを受けてペリュー艦長はシキンムル商館員も釈放し、出航の準備を始めた。17日未明、近隣の大村藩主大村純昌が藩兵を率いて長崎に到着した。松平康英は大村純昌と共にフェートン号を抑留もしくは焼き討ちするための作戦を進めていたが、その間にフェートン号は碇を上げ長崎港外に去った。
結果だけを見れば日本側に人的・物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されて事件は平穏に解決した。しかし、手持ちの兵力もなく、侵入船の要求にむざむざと応じざるを得なかった長崎奉行の松平康英は、日本の国威を辱めたとして自責の念から自刃した。勝手に兵力を減らしていた鍋島藩家老等数人も責任を取って切腹した。さらに幕府は、鍋島藩が長崎警備の任を怠っていたとして、11月には藩主鍋島斉直に100日の閉門を命じた。
フェートン号事件ののち、ドゥーフや長崎奉行曲淵景露らが臨検体制の改革を行い、秘密信号旗を用いるなど外国船の入国手続きが強化された。その後もイギリス船の出現が相次ぎ、幕府は1825年に異国船打払令を発令することになる。
この事件で完全に面目を潰した佐賀藩は、二度と外国に恥をかかされる訳にはいかなくなった。このフェートン号事件こそが、佐賀藩が幕末最大の近代軍隊を保有する契機になった。
佐賀藩が悲壮な決意で考えだしたのが、80ポンドの火薬を背負い自爆する捨て足軽の発想だった。万が一、近代化が間に合わず、西洋帆船の攻撃を受けた場合は、藩と日本の国防を担う為、命を的にして西洋の侵略を退けようと決意した。これは誤解を恐れずに言うならば、太平洋戦争末期にすでに空母を失い制空権も奪われた日本が、圧倒的な物量で迫るアメリカ軍を前に、万やむなき最期の手段として特攻を選んだのと通底すると言えるのではないか。同じく長崎湾の防備を任された福岡藩にも、より具体的な捨て足軽の様子が記録が残る。
尚、フェートン号事件の時、長崎の町年寄、高島茂紀(たかしましげのり)は衣装の下に八十ポンドの火薬を隠し持って人質交渉を行い、イギリスが人質を返さないなら、船内で船長もろとも自爆し、船を沈めるつもりでいたという。
この話はシーボルトが日記に書いていて、シーボルトは「これが日本人である」と記している。