ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1255話 松巨島

序文・元は海

                               堀口尚次

 

 松巨島(まつこじま)は、かつて愛知県名古屋市南区笠寺台地現在の名鉄名古屋本線桜駅」周辺に存在したとされる島。松炬島とも。ただし中世までの史料では「松巨」とは熱田神宮周辺を指しており、「松巨島」は江戸期以降の創作であるとする説もある。

 周囲を年魚市潟に囲まれた南北3km、東西1.5km、標高10m程の島。現在でいうと北は新瑞橋(あらたまばし)駅南側・南は星崎・東は呼続(よびつぎ)・西は鶴里駅東側あたりにでくさび形の形状であった。天白川方面には松が生い茂り、熱田神宮方面から眺めると『松がある大きな島』と見えた事から、松巨島と呼ばれるようになった。また、水害において松巨島があったあたりは伊勢湾台風時、東海豪雨時にも水没しなかった。

 江戸時代に東海道が主流になるまでは、熱田神宮への鎌倉街道の陸路〈上の道〉は緑区古鳴海(こなるみ)より天白区野並(のなみ)から島田方面へ瑞穂区井戸田と続いていたのに対して、海路は、古鳴海〈当時は神戸とも呼称し野並村と古鳴海郷の間にあった湾。現在の野並三丁目と古鳴海の境にある藤川あたり〉より、満潮時は舟、干潮時は徒歩で、松巨島鳥栖八剱社(とりすはっけんしゃ)へ渡る〈中の道〉と、緑区鳴海より笠寺観音に渡る〈下の道〉があった。白豪寺より再び舟で熱田へと渡っていた。

 紀元前210年- 秦の始皇帝が不老不死の薬を探し、日本にあるという情報から、方士の徐福という者に手に入れるようにと命じた。寧波より80隻の船に6000人でやってきた。その時に日本各地をまわり、この松巨島にもやってきた。訪日の際に、水耕、織物、捕鯨、塩田などの技術を伝えられ日本文化の発展にも影響を与えたといわれている。しかし、これらの話は創作であると考えられる。

 天文10年、笠寺観音縁起には『尾張国愛智郡呼続之浦、松巨嶋北端に坂野と申在所あり』と記載されている。天文18年、本堂勧進帳には『尾州愛智郡松巨嶋笠覆寺』と記載されている。永禄3年、信長公記には桶狭間の合戦時に、織田軍が熱田から善照寺砦へ向かうが満潮のため浜手〈中の道、下の道〉が通れなかったとなっている。明和3年、南区呼続の熊野三社境内〈山崎城跡〉には『松巨島の手洗鉢』が置かれており、石鉢の表面には松巨嶋、裏面には明和3年丙戌年五月と刻まれている。文政5年、尾張徇行記の山崎村の項に『往古入海四方に周回して一曲輪の所なる故、総名を松巨島と伝』とある。