序文・一夜で造った城の伝説
堀口尚次
墨俣(すのまた)城は、岐阜県大垣市墨俣町墨俣にあった戦国時代の日本の城。
築城時期は不明である。長良川西岸の洲股〈墨俣〉の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた〈墨俣川の戦い〉。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めた。また、永禄4年ないし永禄9年の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎〈後の豊臣秀吉〉がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる墨俣一夜城である。信長はこの城を足掛かりとして、美濃攻略に成功し、秀吉も出世の道を開いたとされる。ところが信長にとっても、秀吉にとっても重要なこの事件について、太田牛一〈武将官僚で軍記と伝記の著者〉の信長公記をはじめとする良質の史料には、全く記載がない。秀吉が一夜城を築いたという話には、それが史実であることを窺わせる史料的な裏付けがない。 今後、そうした史料が見出せぬ限り、秀吉が築いたという墨俣一夜城は、実在しなかったと判断せざるを得ない。
現在、墨俣城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されている。公園内には大垣城の天守を模した大垣市墨俣歴史資料館〈墨俣一夜城〉が建てられている〈竹下内閣のふるさと創生事業の一億円を活用〉が、大垣城天守は江戸時代に整備されたものであり時代的に合わない。実際の墨俣城は簡易な建築や柵で構成されたものであったとされている。また、公園内にある白鬚(しらひげ)神社〈の説がある〉には境内社として模擬天守閣が築かれた際に分祀された豊国神社があり、豊臣秀吉が祀られている。
昭和34年に発見された前野家古文書のうちの『永禄州俣記』、一部が『武功夜話』昭和62年出版。江戸時代初期までにまとめられたと言われている同書には、墨俣一夜城築城の経緯が克明に記録されており、ほとんど伝説として扱われてきた一夜城の実態を知りうる史料と考えられている。しかし、偽書説も根強く、資料としての信頼性には意見が分かれるところである。現在、墨俣一夜城の逸話が史実として紹介される場合、その詳細はこの『前野家古文書』に多くを拠るもので、墨俣城跡にある墨俣一夜城〈大垣市墨俣歴史資料館〉も『前野家古文書』に基づいて展示を行っている。
※筆者撮影