序文・元々の風土あり
堀口尚次
不幸の手紙は、日本で1960年代、または1970年代頃から流行し始めた、郵便を用いた悪戯行為の一種。「これを受け取った者は、同じ内容の手紙を一定期間内に不特定多数の人物に送らないと、何らかの不幸に遭う」という内容の手紙または葉書を、不特定の相手、もしくは意図した相手に送って、さらに他の相手へ送ることを促すもの。手紙を送らないことで不幸が訪れるということに科学的な根拠は確認されていないが、この手紙を受け取った多くの人々が単なる悪戯や迷信として相手にしない一方で、多くの人々が「不幸に遭いたくない」「他の誰かに不幸を押しつけたくない」と思い悩み、警察、寺院、神社といった各団体がこれらの対応に乗り出すなど、社会問題にまで発展した。
近代以前の日本でも、不幸の手紙のように、幸運と不幸にまつわる発想が存在していた。江戸時代の文政年間には、大黒天の像を印刷した美濃和紙を2枚1組とし、「1枚を箪笥の引出しにおさめ、もう1枚を100件の家に配れば、幸運が訪れる」と書いて送ることが流行して、多くの人々がこれを実行した。弊害が多いために幕府により禁止されたものの、明治時代初期には再びの流行を見せた。文化10年5月には、「南の空に現れた星を見た者は必ず死ぬ」という噂が流れて、多くの人々がこれに恐怖し、その解決策として「この災いから逃れるためには、牡丹餅をこしらえて食わなければならない」との噂も流れた。翌文化11年4月には、「今年は世界がほとんど滅亡する。災難から逃れるためには、もう一度正月を祀らなければならない」との噂が流れ、これに慌てた人々が門松をたてたり、餅をついたりした。
太平洋戦争中には関西地方で、「予言をすると言われる妖怪『件(くだん)』が神戸で生まれて、『自分の話を聞いた者は、3日以内にアズキ飯かおはぎを食べれば、空襲の被害から免れる』と予言した」との噂が流れた。また同時期の昭和20年頃に東京で、「朝、ラッキョウだけで飯を食べると爆撃に遭わないが、それを実行した者は、それを知り合いに教えないと効果がない」との噂が流れた。
このように、幸運の到来と幸運を招く手段、災いの到来と災いから逃れる手段が一組になって、口コミや手紙で広まる習慣は、日本では近代以前から馴染みのあるものであり、不幸の手紙の流行は、こうした風潮が土台となったとも考えられている。