ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1280話 小牧山を寄付した「投げ出しの尾張侯」こと 徳川義親

序文・徳川家康御勝利御開運の御陣跡

                               堀口尚次

 

 徳川義親明治19年 - 昭和51年〉は、日本の政治家、植物学者、狩猟家。尾張徳川家第19代当主。位階・勲等・爵位は従二位勲二等侯爵。戦前の貴族院議員で、第25軍軍政顧問。戦後は社会党を支援して党顧問となるが、公職追放を受けた。日ソ交流協会会長。戦前マレー半島狩りをしたことから、虎狩りの殿様として親しまれた。自伝に『最後の殿様』がある。

 父は越前松平家松平慶永〈春嶽〉で、明治41年尾張徳川家の婿養子となり、家督を相続した。同家の東京移転に際し、愛知県下の土地等の財産の処分を指揮し、昭和6年に財団法人徳川黎明会を設立して、同家伝来の什宝・書籍を同財団付属の徳川美術館蓬左文庫で保存・公開した。他家の家政整理にも携わり、「投出しの尾張」「理財の天才」と称された。

 昭和5年9月、名古屋市の土地7,000坪を建屋も含めて名古屋市に寄付し、古戦場として知られる小牧山の土地68,000坪を小牧町に寄付。先年に北海道・八雲村で開墾者へ土地を譲渡した件もあり、思い切った財産の寄付により、華族仲間からは「投げ出しの尾張」と呼ばれた。

 小牧山は、小牧長久手の戦いの後、徳川家康「御勝利御開運の御陣跡」となり、一般の入山は禁止された。奮地を敬いこの山の下に舘舎を営み、小牧御殿と名づけられた。小牧山碑も建てられたが、今は残っていない。現在残っている曲輪、井戸跡が御殿敷地内にあったと思われる。山と城跡は、江戸時代を通じて尾張徳川家の領地として保護を受け、管理された。元和9年には、尾張徳川家が上街道を整備する為、山の南側にあった町を東に移転させた。中山道木曾路の宿(うま)驛(や)として賑わいを見せた。小牧村の中の小牧驛で、現在の小牧駅から真西に数100mの場所である。

 明治維新後も尾張徳川家の所有地であったが、昭和2年に、時の当主徳川義親によって国に寄付された。同年、国の史跡に指定される。現在でも山中の各所に石垣、土塁、空堀、井戸跡、曲輪、虎口や若干の石垣などが残り、往時を偲ぶことができる。