序文・既婚女性の風習
堀口尚次
お歯黒とは、歯を黒く染める化粧法のこと。日本をはじめ、世界各地の風習である。「お歯黒」という名称は、もとは貴族の用語である。「おはぐろ」の読みに鉄漿の字を当てることもある。御所では五(ふ)倍(し)子(み)水(ず)という。民間では鉄漿(かね)付(つ)け、つけがね、歯黒めなどとも。日本では古代から存在したとされ、主に民間では明治時代末期まで、東北など一部地域では昭和初期まで、特に既婚女性の風習として見られた。この場合、お歯黒は引眉とセットになる場合が多い。
きれいに施されたお歯黒には、歯を目立たなくし、〈かつての人々の一般的な審美観からみて〉顔つきを柔和に見せる効果がある。むらなく艶のある漆黒に塗り込めたものが美しいとされ、女性の化粧に欠かせないものであった。谷崎潤一郎は、日本の伝統美を西洋的な審美観と対置した上で、お歯黒をつけた女性には独特の妖艶な美しさが見いだされることを強調している。
江戸時代以降は皇族・貴族以外の男性の間ではほとんど廃絶、また、悪臭や手間、そして老けた感じになることが若い女性から敬遠されたこともあって既婚女性、未婚でも18〜20歳以上の女性、および、遊女、芸妓の化粧として定着した。農家においては祭り、結婚式、葬式、等特別な場合のみお歯黒を付けた〈童話ごんぎつねにもその描写がある〉。
明治3年、政府から皇族・貴族に対してお歯黒禁止令が出され、それに伴い民間でも徐々に廃れ〈明治以降農村では一時的に普及したが〉、大正時代にはほぼ完全に消えた。
お歯黒を見慣れない人々にとって、黒い歯は奇異で醜悪なものと映り、単に遅れた奇習と見なされたり、美容・衛生以上の特別な目的があるものと曲解される場合も少なくない。幕末に日本を訪れた多くの欧米人が、お歯黒は女性を醜悪化する世界に稀にみる悪慣習と評している。ラザフォード・オールコックは「お歯黒は故意に女性を醜くすることで女性の貞節を守る役割がある」と推測している。歴史社会学者の渡辺京二は著書『逝きし世の面影』の中でオールコック説を否定し、「お歯黒はマサイ族に見られるような年齢階梯制の表現である」と考察している。つまり自由を満喫し逸脱行為すら許容されていた少女が、お歯黒と眉を抜くという儀式によって、妻の仕事、母の仕事に献身することを外の世界に見える形で証明するためのものとしている。
