序文・これぞ本当の赤穂事件
堀口尚次
脇坂安照(やすてる)は、江戸時代中期の大名。播磨国龍野藩の第2代藩主。龍野藩脇坂家4代。官位は従五位下・淡路守。
明暦4年3月20日、初代藩主・脇坂安政の五男として江戸で誕生する。寛文12年6月28日、4代将軍・徳川家綱に拝謁する。延宝6年9月13日に長兄・安村が病弱を理由に廃嫡されると世子となり、同年12月28日に従五位下・淡路守に叙任する。貞享元年11月25日、父の隠居に伴い跡を継いだ。元禄10年には伏見宮邦永親王を勅使饗応役(ちょくしきょうおうやく)として接待している。
元禄14年、江戸城中で浅野長矩〈内匠頭〉が吉良義央〈上野介〉に斬りつける赤穂事件が発生すると、この事件の処理に際し、赤穂藩の隣接藩の藩主である安照は浅野家の居城である赤穂城受け取りの正使を務めている。またその後1年半、新しく永井直敬が赤穂藩主として入部してくるまで、赤穂城〈赤穂藩領〉の在番を務めている。
なお、この赤穂城の在番を務めている間の元禄14年6月25日に、赤穂城で在番の指揮をとっていた龍野藩家老の脇坂民部の日記の『赤穂城在番日記』に、「6月25日 昨夜〈6月24日の夜〉、左次兵衛が乱心にて、貞右衛門を切り殺した。このことを言上するため太郎左衛門を龍野へ遣わした」という記述があるように、赤穂城にて在番していた家臣の左次兵衛が乱心して同僚の貞右衛門を斬り殺すという事件が起こっている〈脇坂赤穂事件〉。同日記に「老中・阿部正武へ明後日〈6月27日〉早飛脚にて大坂を経由して江戸へ遣わす予定」と書かれている。
江戸城松の廊下での殿中刃傷があった直後、播磨龍野藩主脇坂安照が隣藩の藩主である浅野長矩の無念を思いやって抱きかかえられて運ばれる吉良義央とわざとぶつかり、吉良の血で大紋の家紋を汚すと、それを理由にして「無礼者」と吉良を殴りつける。諸大夫の五位が四品の高家に暴行に及んだ咎(とが)で脇坂は老中に罰せられ、赤穂城は与えられる可能性のあった脇坂家でなく永井家のものとなる。この話は1912年の浪曲の筆記本に見えるが、史実としての確認はできず、伝承・巷談の域を出ない。史実において脇坂安照は、赤穂城受け取りの時の正使であった。