序文・親子の確執
堀口尚次
武田信虎(のぶとら)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。武田信玄の父。甲斐源氏第18代当主。武田氏15代当主。
天文10年6月14日、信虎が信濃国から凱旋し、娘婿の今川義元と会うために河内路を駿河国に赴いたところ、嫡男・晴信〈信玄〉は甲駿国境を封鎖して信虎を強制隠居させる〈『勝山記』『高白斎記』〉。板垣信方・甘利虎泰ら譜代家臣の支持を受けた晴信一派によって河内路を遮られ駿河に追放され、晴信は武田家家督と守護職を相続する。
信虎は今川義元の元に寓居(ぐうきょ)することになり、正室・大井夫人は甲斐国に残留しているが、信虎側室は駿河国へ赴いており、同地において子をもうけている。
信虎追放については同時代の記録資料のほか『甲陽軍鑑』にも見られるが、「堀江家所蔵文書」年未詳9月23日付の今川義元書状では、義元は晴信に対して、信虎の隠居料を催促している。晴信と義元により隠居料など諸問題を含めた協定がおこなわれていたと考えられている。信虎の駿河時代の給分は武田家からの隠居料のほか今川家からの支出もあり、給地も存在していた。小和田哲男はこの義元書状を天文11年に比定し、文中に見られる「天道」の語句から、信虎追放は「天道思想」に裏付けられた行為であるとした。一方で、平山優は「天道」の語句は晴信が信虎女中衆を駿河へ派遣する時期を易筮(えきぜい)により占い、「天道」はこの易筮の結果を指すものとして、これを否定している。
事件の背景には諸説ある。信虎が嫡男の晴信を疎んじて次男の信繁を偏愛し、ついには廃嫡を考えるようになったためという親子不和説や、晴信と重臣、あるいは『甲陽軍鑑』に拠る今川義元との共謀説などがある。さらには信虎の可愛がっていた猿を家臣に殺されて、その家臣を手打ちにしたためというものまで伝わっている。いずれにせよ、晴信や家臣団との関係が悪化していたことが原因であると推察される。また、『勝山記』などによれば、信虎の治世は度重なる外征の軍資金確保のために農民や国人衆に重い負担を課し、怨嗟(えんさ)の声は甲斐国内に渦巻いており、信虎の追放は領民からも歓迎されたという。
信虎に悪役のイメージを付加したのは、信虎追放を正当化するために武田氏や軍学者たちが印象操作を行ったとも考えられている。