序文・女王
堀口尚次
卑弥呼〈建寧3年/170年頃 - 正始9年/248年〉は、『魏志倭人伝』等の古代中国の史書に記されている「倭国の女王」と称された人物。日本の古代の歴史書である『古事記』『日本書紀』に卑弥呼の記述はなく、考古学上も実在した物証が提示されていないが、西晋の官僚である陳寿が書いた『魏志倭人伝』に記述が見られる。著者の陳寿は日本に来た記録はないため伝聞により当時の日本に関して記述したと考えられ、それによれば、倭人の国は多くの男王が統治していた小国があり、2世紀後半に小国同士が抗争したために倭人の国は大いに乱れたため、卑弥呼を擁立した連合国家的組織をつくり安定したとある。卑弥呼は鬼道に仕え、よく大衆を惑わし、その姿を見せず、また歳長大で夫がおらず、政治は男弟の補佐によって行なわれたとも記されている。諱も不明で、239年に三国時代の魏から与えられた封号は親魏倭王。247年に邪馬台国が南に位置する狗奴国と交戦した際には、魏が詔書と黄幢を贈り励ましている。
卑弥呼が登場する史書には、出身地に関する記述はない。福岡県糸島市の平原遺跡から八咫の鏡と同じ直径の大型内行花文鏡5枚を始め大量の玉類や装身具が出土したことや、『魏志倭人伝』における伊都国の重要な役割から、卑弥呼は伊都国に繋がる系統の巫女であった可能性がある。「皆女王国を統属す」と読めば、立場は逆になり歴代の王権はさらに強力だったと考えられる」。卑弥呼はヤマト王権の大王と同様に、邪馬台国ではなく出身地に葬られたとし、平原遺跡が卑弥呼の墓である可能性が高いとして、伊都国の出身である可能性がある。
卑弥呼が『古事記』や『日本書紀』に書かれているヤマト王権の誰にあたるかが、江戸時代から議論されているが、そもそもヤマト王権の誰かであるという確証もなく、別の王朝だった可能性もある。また一方、北史における「倭國」についての記述で、“居於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也”「都は邪靡堆にあるが、魏志に則れば、いわゆる邪馬臺者である。」とあり、基本的には連続性のあるヤマト王権の誰かであるだろうとして『日本書紀』の編纂時から推定がなされている。卑弥呼が共立されたのは後漢書から西暦146年~189年の末頃で、卑弥呼の死去年は魏志倭人伝などから西暦247~248年頃と推定されるので、卑弥呼の倭国統治時期は2世紀の終り頃から3世紀前半の60年ほどの期間である。