序文・晋どん
堀口尚次
別府晋介〈弘化4年- 明治10年〉は、日本の武士〈薩摩藩士〉、陸軍軍人。
弘化4年、鹿児島郡吉野村実方で別府十郎の第2子として生まれる。諱は景長、通称を晋介という。長兄は別府九郎。従兄の桐野利秋〈中村半次郎〉とは実の兄弟以上に仲が良かった。
戊辰戦争〈明治元年〉では、城下四番小隊〈隊長・川村純義〉の分隊長として、白河城攻防戦、棚倉・二本松戦で戦い、会津若松進撃の際は川村指揮のもと十六橋の戦いで勇戦した。明治2年、鹿児島常備隊がつくられたとき、大隊中の小隊長となった。明治4年、西郷隆盛が廃藩置県に備えて兵を率いて上京したとき、小隊を率いて従い、御親兵に編入され、次いで近衛陸軍大尉に任ぜられた。
明治5年、征韓論に関連して西郷が満洲・朝鮮偵察を命じた際には、北村重頼・河村洋与とともに外務大丞・花房義質の随員という形で釜山に赴き、韓服を着、韓帽を戴き、変装して2ヶ月近く朝鮮内地を偵察した。帰朝の後、桐野利秋邸を訪れるや、門外より「鶏林八道〈韓国〉を蹂躙(じゅうりん)するは、我二三箇中隊にして足れり」〈『西南記伝』〉と叫んだと云われる。この後、少佐に昇進した。明治6年、征韓論が破裂して西郷が下野すると、すぐさま少佐の職をなげうって鹿児島に帰った。明治7年、鹿児島に青年教養のための私学校がつくられたときは、その創設に尽力した。明治8年、県令・大山綱良が西郷に区長・副区長の推薦を依頼したとき、推薦されて加治木外四郷の区長となった。
明治10年、私学校本校の大評議で出兵に決すると、別府は加治木・国分・帖佐・重富・山田・溝辺郷の兵を募って独立大隊〈後に六番大隊・七番大隊と呼ばれる。この2大隊は装備が古く、人数も少なかった〉
を組織し、その連合指揮長となって先発北上した。この大隊が川尻で熊本鎮台偵察部隊と遭遇戦をしたのが西南戦争の実戦の始まりである。
城山陥落の日、西郷の洞前に整列した40余名は岩崎口へ進撃し、途中、銃弾で負傷した西郷に命じられ〈この時西郷は「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言ったといわれている〉、晋介は「御免なったもんし〈お許しください〉」と叫び、拝礼している西郷を介錯した。その後、弾雨の中で自決した。享年31。