序文・当初は八町堀
堀口尚次
八丁堀は、江戸の地名、東京市の明治11年-昭和22年の京橋区の地名〈本八丁堀や南八丁堀など〉、および現在の東京都中央区の地名である。現行行政地名は八丁堀一丁目から八丁堀四丁目。
このあたりは天正18年の徳川家康の江戸入府後の慶長年間頃に埋立てられた土地である。
寛永年間にこの地に開削された堀の長さが約8町〈約873m〉あったため「八町堀」と呼ばれ、その堀名に由来して町名がつけられた。後に「町」が略字の「丁」となり八丁堀となった。その八丁堀〈八町堀〉は、江戸の神田と日本橋との境界となっていた堀で、竜閑橋〈常盤橋西北〉から城濠に分かれて、東方馬喰町に達し、それから南の浜町堀となって隅田川に入る。銀町堀とも〈『江戸文学地名辞典』〉。
江戸時代初期には多くの寺が建立され、寺町となっていた。しかし、1635年、八丁堀にあった多くの寺は、浅草への移転を命じられた。その後、寺のあった場所に、町奉行配下の与力、同心の組屋敷が設置されるようになったという。時代劇で同心が自分達を“八丁堀”と称したのはこれに因む。江戸時代、八丁堀にあった銭湯は非常に混雑することで知られ、混雑を避けて無人の女湯に入る同心などの者達もいた。「八丁堀の七不思議」の一つ、“女湯の刀掛け”は史実である。
【私見】テレビ番組で藤田まことが演じた「必殺シリーズ」中村主水(もんど)は、南町奉行所の同心なので、裏稼業仲間からは「八丁堀」と呼ばれていたことも合点がいく。