ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1316話 八丁味噌と徳川家康

序文・赤だし

                               堀口尚次

 

 八丁味噌は、愛知県岡崎市八丁町発祥の長期熟成させた豆味噌。

 岡崎市八帖町八丁町はかつて「八丁村」といった。これは岡崎城より西へ約870メートル離れていたことに由来する。この八丁村は矢作川の伏流水による湧き水が豊富で、かつ東海道の水陸交通の要地であった。すぐそばに矢作橋が架設されており、舟運〈八丁土場と呼ばれた〉も同時に恵まれていた。そこで、兵食として重要視されてきた味噌を、軍需物資の兵站基地として形成された八丁村で製造することに着目した早川久右衛門家〈現・カクキュー〉と大田弥治右衛門家〈現・まるや八丁味噌〉が当地で味噌醸造を創業した。すなわち「八丁味噌」の始まりである。

 岡崎出身の武将、徳川家康の健康と長寿と支えたのは「麦飯と豆味噌」だったと言われ、戦国時代には岡崎で豆味噌が製造されていたものと考えられる。カクキューの早川家が1878年に愛知県庁に提出した上申書には同家の創業は「正保2年」と記されているが、明暦元年に朝鮮通信使が岡崎に宿泊した折に伝えた味噌の製法が八丁味噌の起源となったという説も存在する。

 徳川家康の廟所である日光東照宮の造営にあたっては、宮大工たちの食料に岡崎の八丁味噌が用いられたと言われている。江戸期の国学者渡辺政香は『参河志』に、「三河國朝夕食汁に赤味噌を用ゆ、他國にはなし」と書き記した。1855年に岡崎の大樹寺が火災で本堂などが焼失した際、再建のため江戸から派遣された見分役は「味噌は八丁味噌とて名物也。百文は三百三十匁又三百五十匁自位也。八丁村に問屋二軒あり」と手記にしたためた。

 八丁味噌の江戸時代の仕入れ先は、大豆は関東・東北・九州が主力で、廻船で平坂村〈現・西尾市〉や鷲塚村〈現・碧南市〉の湊に陸揚げされ、川舟では矢作川の八丁土場で荷揚げされた。大豆の仕入れ問屋は平坂村の石川小右衛門や市川彦兵衛が大口で、三河木綿の江戸販売などの廻船の往復便が効率的に活用された。地元の「盆大豆」の利用は原料全体の15%ほどであった。主力は「上州大豆」を中心に関東の大豆が59%、「仙台・南部大豆」が23%であり、廻船の帰り荷として関東・東北方面から大量の大豆が買い付けられた。

私見】筆者の地元愛知県では、味噌汁のことを「赤だし」とよぶが、これは赤味噌八丁味噌を使った濃い味の味噌汁のことを指す。例・赤だし定食など