ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1320話 瞽女

序文・盲目の旅芸人

                               堀口尚次

 

 瞽女(ごぜ)は、目明きの手引きに連れられて、三味線を携えて僻陬の村々を唄をもって渡り歩いた日本の女性盲人芸能者を意味する歴史的名称。その名は「盲御前(めくらごぜん)」など、中世以降の貴族などに仕える女性の敬称である「御前」に由来する説と、中国王朝の宮廷に務めた盲目の音楽家である「瞽師」や「瞽官」の読みから転じた「瞽女(ごじょ)」に由来する説がある。近世までにはほぼ全国的に活躍し、20世紀には新潟県を中心に北陸地方などを転々としながら三味線、ときには胡弓を弾き唄い、門付(かどつけ)巡業を主として生業とした旅芸人である。女盲目(おんなめくら)と呼ばれる場合もある。時にやむなく売春をおこなうこともあった。

 瞽女の起源は不詳であるが、室町時代前期に書かれた『看聞日記』には「盲女」と記され、同後期に書かれた『文明本節用集』には「御前コゼ 女盲目」と記され、同末期に描かれた『七十一番職人歌合』にも、鼓を打ちながら『曾我物語』を語る姿が描かれている。近世では三味線や箏を弾くのが普通となった。元禄年間の頃には、都や町中では富家の子女に弾き方を教えたり、宴席で演奏を行うことが多くなる一方で、農村地方では、都で流行った浄瑠璃を、「クドキ」として弾き語りながら村々を渡り歩くことを生業とした。この瞽女の演目〈瞽女唄〉のひとつである「クドキ〈口説節〉」は、浄瑠璃から影響を受けた語りもの音楽であるが、義太夫節よりも歌謡風になっている。

 江戸時代の瞽女越後国高田〈上越市〉や長岡〈長岡市〉、駿河国駿府静岡市〉では有渡郡府中下魚町金米山宝台院傍らに屋敷を与えられて一箇所に集まって生活しているケースがあり、これを「瞽女屋敷」と称した。当道座の地方組織の成立に伴い、各地の城下町や門前町、宿場町に独立した瞽女の組織が結成されたが、それを束ねる全国組織は存在せず、幕府も地域の慣行に合わせる形で管理を各藩に委ね、各藩も当道座の地方組織の座元に取り締まりを一任したが、実態は各々の座元に従属した瞽女が組織を束ね、揉め事の際は当道座が介入する形が主であった。師匠となる瞽女のもとに弟子入りして音曲や技法を伝授されるという形態をとった。親方となる楽人〈師匠〉は弟子と起居をともにして組をつくり、数組により座を組織した。説経節の『小栗判官』や「くどき」などを数人で門付演奏することが多く、娯楽の少ない当時の農村部にあっては、瞽女の巡業は少なからず歓迎された。