序文・家臣から召し上げた
堀口尚次
伊奈城は、三河国宝飯郡伊奈村〈現愛知県豊川市伊奈町柳〉にあった日本の城。豊川市指定史跡。室町時代に本多定忠・本多定助によって築城された中世城館で、約150年間伊奈本多氏の居城であった。主郭は深田の中にあり河川に囲まれ主郭周囲は土塁でめぐらされていた方形居館型の城郭。
徳川家の家紋「葵の紋」発祥ゆかりの地として知られている。享禄2年松平清康〈徳川家康の祖父〉が吉田城攻めの後田原城を従属。本多正忠は松平勢に参戦、清康を伊奈城に招き祝宴を開く。このときの逸話が「葵の紋」発祥ゆかりの地の由縁となる。
享禄2年、三河平定を推し進める松平清康は東三河へ進攻して吉田城〈豊橋市〉へ迫った。伊奈城主本多正忠は姻戚関係であった吉田城主牧野氏との関係を絶ち、いち早く清康の陣に参じた。夜陰に紛れて吉田川を渡り、吉田城の東門を打ち破って城内に突入し松平勢を導き入れたという。
吉田城を攻略した清康は休む間もなく軍を田原城攻略へ向けた。しかし、田原城主の四代目戸田宗光は、戦わず清康の下へ降った。この時、宗光は清康の一字を貰い受けて「戸田康光」と名乗る。この田原攻めでは正忠らの本多勢が先導役を果たしたとされている。この後、清康は吉田城へ凱旋し、東三河の諸豪族の服従を受けて、本拠地の岡崎へ戻るが、田原城から吉田城への凱旋の途中、伊奈城へ立ち寄って勝利の祝宴を開いた。その際に正忠は、城内にあった「花ヶ池」の水葵(みずあおい)の葉に肴を盛って差出したという。清康は喜悦して、「立葵紋は正忠の家紋なり、此度の戦に正忠最初に味方となりて勝ち戦となる。吉例なり、賜らん」と本多家の「立葵紋」を所望したという。このことにより、正忠は清康への心服の情が一層深まったとされる。後に立葵紋は松平家の紋となり、家康の代に「三葉葵紋」となったとされる。
『藩翰譜』〈新居白石〉の伊奈本多氏の項によると、清康は本多家が味方したことで勝利を得たことを吉例として、本多家の家紋であった「三つ葵」を召し上げたとしている。『御先祖記』は、松平家は立ち葵を用いていたが、徳川家康が永禄3年に本多家の「三つ葉葵」を旗紋としたことで、それをはばかって本多家は立ち葵に改めた、としている。