序文・朴訥
堀口尚次
植村直己〈昭和16年 -昭和59年〉は、日本の登山家、冒険家。兵庫県出身。1970年に世界最高峰エベレストに日本人で初めて登頂した。同年、世界初の五大陸最高峰登頂者となる。1978年に犬ぞり単独行としては世界で初めて北極点に到達した。1984年、冬期のマッキンリー〈現:デナリ〉に世界で初めて単独登頂したが、下山中に消息不明となった。1984年、国民栄誉賞を受賞した。
植村家は代々農家で、直己の祖父は損得・金勘定抜きで困っている人を助ける性分だった。直己もこの祖父の血を引いており、登山隊に加わる時にはトップに立ちたいという想いはあっても、自分が主役になるよりは常にメンバーを影でサポートするような立場に立った。
体力以外に取り立てて優れている面があるわけではない自分に対して常に劣等感を抱いており、記者会見などで自分が持ち上げられることを極度に嫌った。しかし、妻・公子や知人の多くが指摘しているように、逆にその劣等感をバネにして数々の冒険を成功させたともいえる。
人前に立つのは大の苦手で、資金集めの講演会や記者会見で大勢の聴衆を前にして話をする際は、第一声を発するまでしばらく気持ちを落ち着けなければならなかったが、口下手ながら自身の体験に基づいた講演は多くの聴衆に感動を与えた。
生前に「冒険で死んではいけない。生きて戻ってくるのが絶対、何よりの前提である」という言葉を残していたが、最期は冒険の下山中に行方不明となった。1984年3月8日の捜索打ち切りの知らせを受けて、翌3月9日、妻・公子が明治大学で記者会見に応じた。記者「もし生きていたら、どういうことを言いたいですか?」公子「常に『冒険とは生きて帰ること』って偉そうに言ってましたので、ちょっとだらしがないじゃないの、って〈言いたいです〉」記者「大切な人だと思えば、止める必要があったのではないですか?」公子「どんな旅にも全部反対しました。でも『俺にはこれしかない』って言ってました。〈そして、〉反対しても出かけていく人でした」
【私見】筆者は二十歳の頃に楽器店のヤマハ特約店に勤務していたが、名古屋市のホテルでヤマハが主催する植村直己の講演会に出席した。感動した記憶が残るが、素朴な人柄で、とても大記録を達成した人には到底思えなかった印象だ。