ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1335話 御節料理

序文・歳神様に捧げる供物

                               堀口尚次

 

 御節(おせち)料理は、節会や節句に作られる料理。節日のうち最も重要なのが正月であることから、正月料理を指すようになった。単におせちという。

 歳神様に捧げる供物としての料理が「おせち。「節目の日のための供物」という意味から「御節供(おせちく)」と呼ばれたのが語源。「おせち」は「御節供」や「節会(せちえ)」の略であり、中国から伝わった五節供の行事に由来する。原型は弥生時代にできていたが、奈良時代には朝廷内で節会として行われ、そこで供される供御を節供と言った。現在のような料理ではなく、高盛りになったご飯などであったとされる。この五節会の儀を、一般庶民がならって御節供を行うようになったものと考えられている。元々は五節句の祝儀料理全てを言ったが、後に最も重要とされる人日の節句の正月料理を指すようになった。正月料理は江戸時代の武家作法が中心となって形作られたといわれている。

 江戸時代、関西では「蓬萊飾り」、江戸では「食積(くいつみ)」、九州の佐賀・長崎などでは「蓬萊台・手懸け盛り」と称し、歳神様に三方などでめでたい食べ物などを床の間に飾り、また年始の挨拶に訪れた客にも振る舞ったり、家族も食べたりした。御節料理は元来は大晦日から元旦にかけての年越しにおいて食べるものであったとされる。北海道・東北など一部の地方では、歳迎えの儀として大晦日に食べる風習が残っている。

 『嗚呼傍廂』によれば天明の頃までは食べていたが、それ以降は飾るだけとなり、正月料理は重詰め等へと変化していく。膳に盛られた料理と重に詰められた料理が用意され、このうち膳に盛られた料理を「おせち」と呼んだ。後の『東京風俗志』〈明治34年〉によるとお膳に供えた煮物を「御節」、重詰めしたものを「食積」と呼んでいる。重箱に本膳料理であった煮染めを中心とした料理が詰められるようになり、食積と御節の融合が進んだ。現在では重箱に詰めた正月料理を御節と呼ぶようになっている。重箱に御節料理を詰めるようになったのは明治時代以降のことといわれている。

 重箱に御節を詰める手法が完全に確立した時期は第二次世界大戦後で、デパートなどが見栄えのよい重箱入りの御節料理を発売したことによるともいわれている。正月料理の重詰めについては江戸時代の文化・文政年間の料理茶屋における料理の影響を受けているとみる説もある。