ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1336話 野暮ったい

序文・純粋だけど野暮じゃなく

                               堀口尚次

 

 野暮とは、洗練されていない様を表す語である。「いき」の反対の形容である。

 語源についてはいくつかの由来が伝えられるが、遊里から発生したと考えられている。田舎者を意味する「野夫(やぶ)」の訛りという説、あるいは薮(ヤブ医者の薮と同様、相手や事態を見通せないダメな者)の訛りとの説が有力である。 

 また別の説としては、雅楽の笙(しょう)の17本の竹の内、〈現代の通常の笙で〉音の出ない「也」と「毛」の管から来ているというのもある。

 また、武蔵国の谷保(やぼ)天満宮が由来と称する民間語源説もある。その根拠として挙げられるのが蜀山人(しょくさんじん)の「神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼの天神」という狂歌である。しかし、野暮という言葉はそれ以前に見られるため、谷保天満宮野暮天の由来という説は後世の付会と考えられている。

 地方出身の侍は、落語や川柳などで浅黄裏(あさぎうら)と呼ばれ、江戸っ子からは野暮の代表ともされた。

 奥の細道で、「野夫〈田舎者事であり「野夫」は「やぶ」とも読む〉といへども、さすがに情け知らぬにはあらず」と読まれている。このように「いき」の一つとされる「情け」の反対語と関連付けられており、語源の可能性もあるが定かとはなっていない。

 野暮という形容は、派手な服装、金銭への執着、くどくどしい説明などについて用いられる。また、〈機能美までに至らない〉非実用的で表面的な見栄えの重視、ブランドへの無批判な信仰と依存も野暮といえる。時代遅れのファッションは、いまだレトロとみなされない場合は、野暮と見られる。キッチュは、俗悪という点では野暮に類似した面もあるが、「奇妙さ」が徹底しており、突き抜けている点において、かえって肯定的な美的評価がされることがある。しかし、レトロやキッチュと混同されていないかぎり、野暮であること自体に肯定的な美的評価がされることはない。江戸時代の感覚では、くどくどしい場合は「気障(きざ)」を使う。

私見】『不器用だけれど しらけずに 純粋だけど 野暮じゃなく』阿久悠作詞で河島英五が歌った「時代おくれ」を思い出した。続きは『目立たぬように はしゃがぬように 似合わぬことは無理をせず 人の心を見つめつづける  時代おくれの 男になりたい』。宮沢賢治の世界に通じる何かを感じます。