序文・力士を治療
堀口尚次
浅井万金膏(あざいまんきんこう)とは、かつて愛知県一宮市浅井町で森林平製薬が製造・販売した膏薬。別名「相撲膏」。
江戸時代後期から全国に普及し、最盛期には年間400万枚以上を手作業で生産。愛知県葉栗郡浅井町〈現・一宮市浅井町〉は“浅井万金膏の町”として知られていた。
宝永6年:初代森林平〈貞享2年 - 明和9年〉が、尾張国葉栗郡東浅井村〈現・愛知県一宮市浅井町〉で接骨医を開業。初代の在世中〈明和9年以前〉:浅井万金膏の製造・販売を開始。「初代が釣りに出かけた折に、脚を怪我した鶴を見つけ、手当てをしたところ、恩返しに製法を教えてもらった」という伝承がある。
幕末:尾張藩お抱え力士である境川浪右エ門〈5代目〉が、治療の為滞在する。完治後、大関まで昇進したことから、浅井万金膏は全国に知られる。元治元年:第15代尾張藩主・徳川茂徳の落馬による怪我を治療。茂徳の完治後、葵紋入りの薬研(やげん)〈薬材などを碾(ひ)いて粉末化したり、磨り潰して汁を作ったりするための伝統的器具〉を賜る。平成9年:大手医薬品メーカーが販売する湿布薬にシェアを奪われ、この年をもって製造中止。
歴代の森林平は相撲好きであり、治療に訪れた江戸相撲の力士に対し全快するまで無料で泊め、世話を行なった〈治療に訪れた力士の為の部屋もあった〉。明治以降も相撲に関わり、廃業後に浅井町へ移住した元力士も複数いたという。浅井町で相撲の準場所が行なわれた事もある。日本相撲協会も森家には特別の配慮を行なっていたという。
現在、森接骨院は内科医院に代わったが、同じ場所に存在し、明治時代と思われる古い建物である。製造・販売をしていた森林平製薬も近くに現存する。
浅井町の長誓寺には、慰霊碑「東京力士霊魂之碑〈横綱大関 常陸山 謹書〉」がある。慰霊碑の横にある力士像は濱碇(はまいかり)関。石碑には、彼の辞世の句『うら枯れや我は帰らぬ旅の人 東渓〈俳号〉』が刻まれている。濱碇関はその後、安城で薬の行商をしたとされ、安城市里町には森林平氏の石碑と共に彼の力士像が建っている。