ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1349話 尾張名古屋は士郎(城)でもつ

序文・名古屋がうんだ俳人

                               堀口尚次

 

 井上士朗は江戸時代後期の俳人、医師。医師として活動する傍ら、加藤暁台(きょうたい)〈尾張俳人〉門下で俳諧活動を行い、暁台の死後は名古屋の俳壇を主導した。

 寛保2年3月10日、尾張国守山村〈愛知県名古屋市守山区〉に生まれた。叔父で名古屋新町の医師・井上安清の養子となり、専庵と号し、宝暦7年2月、医師として独立した。後に京都に上り、吉増周輔に師事、産科を得意とした。

 安永3年4月、伊藤都貢と共に京都に上り、与謝蕪村と交流。難波、伏見、大津を経て伊勢神宮を参拝して帰宅し、『幣ぶくろ』を編集した。『幣ぶくろ』で初めて士朗の字を使用する。

 安永6年12月尾張藩御目見となる。天明4年4月より尾張藩御用懸を務める。

 寛政元年3月、本居宣長が名古屋を訪れた際、門人録に署名している。寛政2年、京都の二条家屋敷で加藤暁台を宗匠とする中興御俳諧之百韻が行われた際には、士朗は萌黄散服を着用した。同年、暁台に後継を打診され、これを辞退しているが、これは本業の医業があったからだと考えられる。

 住所は安隆〈祖父〉の代より名古屋新町中程北側〈旧鍋屋町二丁目13、14番地〉である。天明2年の大火後、住居東に新道が作られ、専庵横町と通称された。現在の名古屋市東区泉二丁目4、5番と6、7番の間に当たる。士朗の没後、同住所には医業の門人・宇都宮尚山が住んだ。

 専庵士朗の医術は名古屋城下では有名で、ある時1万石を領するという藩の重臣が病に罹り、専庵が呼ばれた。治療に口を出さないことを確約した上で、熱湯を入れた塗盆に新鮮な馬糞から液を絞り出して与えた。患者が嘔吐すると、これを用いるには及ばないとして、別に薬を調合して与え、病勢が薄らいだという。

 建中寺の方丈(ほうじょう)〈住職〉が病に罹った時、専庵が呼ばれ、治療に成功した。これに対し多額の金幣を贈られたが、これを受けず、再三の問答の後受け取り、米に換えて門前で貧民に配ったという。

私見名古屋市東区の大光寺の井上士郎宅跡の立札には『「尾張名古屋は士郎〈城〉でもつ」とまでいわれた俳人井上士郎は…士郎の旧宅はこの大光寺に隣接してあった』とある。