ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1355話 茶坊主・河内山宗春の虚構

序文・身分は武士

                               堀口尚次

 

 茶坊主とは、室町時代から江戸時代に存在していた職名の一つ。

 将軍大名の周囲で、茶の湯の手配や給仕、来訪者の案内接待をはじめ、城中のあらゆる雑用に従事した。刀を帯びず、また剃髪していたため「坊主」と呼ばれているがではなく、武士階級に属する

 初期には同朋衆などから取り立てられていたが、後には武家の子弟で、年少より厳格な礼儀作法や必要な教養を仕込まれた者を登用するようになった。職務上、城中のあらゆる場所に出入りし、主君のほか重要人物らと接触する機会が多く、情報に通じて言動一つで側近の栄達や失脚などの人事はもとより政治体制すらも左右することもあったことから、出自や格を超えて重要視、時には畏怖されることもあった。

 転じて現代は、権力者に取り入り出世や保身を図る者の侮蔑的比喩として使われることが多い。

 河内山宗春(こうちやまそうしゅん)は江戸時代後期の茶坊主。彼を題材とした講談・歌舞伎などの作品で知られる。歌舞伎・映画・テレビドラマなどでは、名前を「宗俊」と表記する。また「宗心」とも。

 宗春は江戸出身で、11代将軍徳川家斉治世下の江戸城西の丸に出仕した表坊主〈若年寄支配下に属した同朋衆の一つ。将軍・大名などの世話、食事の用意などの城内の雑用を司る役割で僧形となる〉であった。文化5年から6年ごろ小普請入りとなり、博徒や素行の悪い御家人たちと徒党を組んで、その親分格と目されるようになったという。やがて女犯した出家僧を脅迫して金品を強請り取るようになった。文政6年捕縛された後、程なく獄死した。巷説では水戸藩が財政難から江戸で行っていた富くじの経営に関する不正をつかみ、同藩を強請ったことが発覚し捕らえられたとされるが、詳しくは分かっていない。墓所は東京都港区北青山の高徳寺。

 宗春は取調中に牢死したため申し渡し書〈判決書〉が残っておらず、具体的にどのような罪状で捕らえられたのかは不明である。しかしそのことがかえって爛熟(らんじゅく)した化政文化謳歌する江戸庶民の想像をかきたて、自由奔放に悪事を重ねつつも権力者には反抗し、弱きを助け強きをくじくという義賊的な側面が本人の死後に増幅していくこととなった。