序文・のちの徳川家康の武功一番
堀口尚次
大高城は、尾張国知多郡大高村〈現在の名古屋市緑区大高町〉にあった日本の城。桶狭間の戦いの前哨戦として、当時今川義元の配下であった松平元康〈後の徳川家康〉が「兵糧入れ」をおこなったことで名高い。現在は国の史跡に指定され、公園として整備されている。
築城年代ははっきりしないが、土岐頼康が尾張守であった南北朝期には池田頼忠が城主を務め、永正年代には花井備中守や、水野為善とその息子の忠守が居城したことが伝えられている。天文年間も引き続き水野氏が治めたが、織田信秀の支配下にあった。
天文17年、今川義元の命で野々山政兼がこの城を攻めたが、落とすことができず政兼は戦死する。しかし信秀の死後、息子の織田信長から離反した鳴海城主の山口教継の調略で、大高城は沓掛城とともに今川方の手に落ちる。この脅威に対して信長は「丸根砦」と「鷲津砦」を築き、大高城に圧力を加える。永禄2年、朝比奈輝勝が義元の命をうけ大高城の守りに入る。
翌永禄3年には、大高城の包囲を破りそのまま鵜殿長照が守備についた。5月18日夜には、大高城に松平元康が兵糧を届け、長照に代わり元康が城の守備についた。やがて信長の攻撃による義元の死〈桶狭間の戦い〉を確認した元康は岡崎城に引き下がったため、大高城は再び織田家の領土となった〈ただしもっと早く、永禄元年に元康の「兵糧入れ」が行われたと記す史書もある。また、永禄2年とする史書もある。その史書の記述が間違いである可能性もあるが、大高城が今川方に落ちた直後にも元康が兵糧入れを行ったのではないか、と考える研究者もいる〉。
まもなく廃城となったが、尾張藩家老の志水家が、元和2年にここに館を設けてから代々住むようになった。この館も明治3年に売却された。
【私見】大高城への「兵糧入れ」に成功した松平元康は、桶狭間の戦いで主君・今川義元を失い、急ぎ岡崎へ引き返すが、岡崎城には義元の命で城代がおり、入れなかったので、近くの大樹寺へ入った。そこで無念の内に自害しようとしたとされる。そして決死の思いで大高城への「兵糧入れ」を成功させたのに、その大高城から退去してしまった〈義元の命で交代した説が有力?〉鵜殿長照との因縁が、この時から始まったのではなかろうか?