序文・宿老からの転落
堀口尚次
佐久間信盛は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の宿老、鳴海城主。平手政秀自害から主君の織田信長による折檻(せっかん)状で織田氏を離れるまでの約30年間、織田氏家臣団の筆頭家老として家中を率いた。尾張国愛知郡山崎〈現在の名古屋市南区〉に生まれ、織田信秀に仕えた。後に幼少の織田信長に重臣としてつけられ、信秀死後の家督相続問題でも一貫して信長に与し、信長の弟・信時を守山城に置くよう進言し、城主だった信長の叔父・織田信次の家臣・角田新五らを寝返らせ、信長の弟・信行の謀反の際も稲生の戦いで信長方の武将として戦った。その功により以後家臣団の筆頭格として扱われ、「退き佐久間」〈殿軍の指揮を得意としたことに由来〉と謳われた。
天正8年信長から19ヶ条にわたる折檻状を突きつけられ、信盛は畿内方面軍軍団長と筆頭家老の地位を捨て織田家を離れた。この信盛の決断は実質的に追放という形となり、嫡男の信栄と少数の郎党達らと共に高野山へと上った。その後、高野山にすら在住を許されずにさらに南に移動したと伝えられ、郎党達も信盛父子を見捨てて去っていった。高野山に落ちる時はつき従う者は2、3名、熊野に落ちる時は1名だったという。
以下は、信長による19ヶ条の折檻状の最後の三条と通達文
一、信長の生涯の内、勝利を失ったのは先年三方ヶ原へ援軍を使わした時で、勝ち負けの習いはあるのは仕方ない。しかし、家康のこともあり、おくれをとったとしても兄弟・身内やしかるべき譜代衆が討死でもしていれば、信盛が運良く戦死を免れても、人々も不審には思わなかっただろうに、一人も死者をだしていない。あまつさえ、もう一人の援軍の将・平手汎秀を見殺しにして平然とした顔をしていることを以てしても、その思慮無きこと紛れもない。
一、こうなればどこかの敵をたいらげ、会稽(かいけい)の恥〈悔しさを忘れず〉をすすいだ上で帰参するか、どこかで討死するしかない。
一、親子共々頭をまるめ、高野山にでも隠遁し連々と赦しを乞うのが当然であろう。
そもそも天下を支配している信長に対してたてつく者どもは信盛から始まったのだから、その償いに最後の2か条を実行してみせよ。承知しなければ二度と天下が許すことはないであろう。