序文・53年間の流人生活
堀口尚次
近藤富蔵(とみぞう)、文化2年 - 明治20年は、江戸時代後期から明治の人物、民俗学者。旗本・近藤重蔵の長男。諱は守(もり)真(ざね)。江戸で出生したが、町人一家殺傷事件を起こして長期にわたって流罪となり、その後赦免されるも流人生活を送った八丈島で生涯の大半を過ごした。井伏鱒二の『青ヶ島大概記』の種本となった『八丈実記』を著している。
富蔵は、千島や択捉島の探索をした近藤重蔵の息子として生まれたが、幼少のころから素行が悪かったという。父親は本宅のほかに、三田村鎗ヶ崎〈現在の東京都目黒区中目黒2-1〉に広大な遊地を所有しており、文政2年に富士講の信者たちに頼まれて、その地に富士山を模した富士塚〈目黒富士〉を築造した。目黒新富士、近藤富士、東富士などと呼ばれて参詣客で賑い、門前には露店も現れた。
この新富士の管理を父親から任された富蔵は、博徒あがりの町人〈農夫とする説も〉塚原半之助に頼まれて蕎麦の露店用の土地を貸したが、家賃の未払いから諍(いさか)いが生じた。文政9年、塚原半之助と父重蔵が持つ別荘〈前述の新富士のこと〉の地所境界争いから、塚原とその妻や母親、子供計7名を殺傷し、その罪から同年に伊豆諸島の八丈島に流罪の判決が下る。俗に言う「鎗ヶ崎事件」である。翌文政10年、八丈島へ流された。父重蔵も連座して近藤家は改易となった。
流人生活の間に、『八丈実記』72巻〈清書69巻〉を著す傍ら、島民に寺子屋での読み書きの指導も行っていた。また、島の有力者の娘だった妻との間に1男2女の子をなしている。
明治元年、明治新政府は流刑などの追放刑の執行を停止したが、それに伴う恩赦を受けることができず、明治11年に八丈島に赴任した東京府の役人が「八丈実記」の著作性の高さを認め、明治13年2月27日にようやく明治政府より赦免を受け、53年間の流人生活を終える。
赦免後のその年、一旦は本土に戻るが、親戚への挨拶回り、近江国大溝藩内円光禅寺の塔頭瑞雪院にある亡父重蔵への墓参、西国巡礼を済ませた。2年後の明治15年に再び八丈島に帰島し、その後一観音堂の堂守として、島で生涯を終えた。享年83。