序文・もう走れません
堀口尚次
円谷幸吉〈昭和15年- 昭和43年)は、日本の陸上競技〈長距離走・マラソン〉選手、陸上自衛官。
福島県岩瀬郡須賀川町〈現・須賀川市〉出身。中央大学経済学部卒業。自衛隊体育学校所属。最終階級は2等陸尉。第一級防衛功労章、勲六等瑞宝章受章。
5000m・10000m・20000mで日本記録を樹立し、1964年東京オリンピックのマラソンで3位入賞、10000mで6位入賞を果たした。しかし、オリンピックから約3年後の1968年1月に自殺を遂げ、当時の日本の社会に大きな影響を与えた。
円谷は自衛隊体育学校宿舎の自室にて、両刃のカミソリで頚動脈を切って死亡しているところを発見された。死亡推定時間は前日の午後11時だった。27歳没。
遺書は家族宛と自衛隊体育学校関係者宛の2通があった。このうち「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました」から始まり「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれている家族宛の遺書にしたためた感謝と、特に『幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません』の言葉は、当時の世間に衝撃を与え、また円谷の関係者ら多くの涙を誘った。
自衛隊葬は1月13日に東京都新宿区市谷本村町にあった陸上自衛隊大講堂でおこなわれ、弔辞のうち友人代表のものは三宅義信が読んだ。墓は須賀川市の十念寺に、メキシコ五輪に向けてきょうだいが父の命で積み立てていた貯金で建てられた。戒名は「最勝院功誉是真幸吉居士」。
三島由紀夫は『円谷二尉の自刃』の中で「円谷選手の死のやうな崇高な死を、ノイローゼなどといふ言葉で片付けたり、敗北と規定したりする、生きてゐる人間の思ひ上がりの醜さは許しがたい。それは傷つきやすい、雄々しい、美しい自尊心による自殺であつた」 と述べた。最後に「そして今では、地上の人間が何をほざかうが、円谷選手は、“青空と雲”だけに属してゐるのである」 と締めくくった。