ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1367話 最初の戦国大名・朝倉孝景

序文・天下一の極悪人

                               堀口尚次

 

 「戦国大名」の定義については現在に到るまで曖昧さを残したまま検討が続けられているが、おおむね室町時代守護大名と比べると、戦国大名は、室町将軍など中央権力と一線を画し、守護公権のあるなしに関わらず国内を独自に統一する権力を有する。また、有力国衆など被官家臣の統制を強化し家中を構成し、領国内において軍役を課すシステムを確立している

 最初の戦国大名は越前の朝倉英林孝景であり、文明3年、将軍・足利義政より守護を推戴しない守護代として補任されたのが初例である。

 朝倉孝景は、公領や公家領・寺社領の押領を多く行ったため、当時の権力層である「寺社」「公家」〈寺社本所領〉にとってはまさに仇敵だった。当時、寺社が得意としていた人々の信仰心を利用した呪殺目的の護摩祈祷も、改名など呪詛回避を熟知する孝景には通じず、一例として、寛正5年に発生した興福寺が荘園として越前領内に所有していた河口・坪江荘を巡る争いでは、一度は興福寺の安位寺経覚を通じて謝罪の起請文を提出するも、その後も侵犯を繰り返し、2つの荘園を半(はん)済(ぜい)〈室町幕府が荘園・公領の年貢半分の徴収権を守護に認めたこと〉することに成功している。

 公卿の1人で前中納言だった甘露寺親長は、日記の中で孝景のことを「天下悪事始行の張本」と評している。彼の死を聞いた際には「越前の朝倉孝景が死んだということだ。朝倉孝景は「天下一の極悪人」である。あのような男が死んだことは「近年まれに見る慶事」である」とまで記している。また、一条兼良も自ら越前に下って孝景と直談判して家領の足羽御厨の回復を求めたが失敗に終わり、『桃華蘂葉』の中で「言語道断也」と記している。興福寺別当の経覚は、孝景の押領に対抗するため、延暦寺に追われていた親戚の本願寺8世法主蓮如を自領の吉崎に匿い、代官の役目を負わせつつ浄土真宗の布教を許した。これが後に朝倉氏歴代を悩ませる一向一揆の温床となった。

 孝景は当時の武将としては珍しいくらい合理的な人物で、孝景条々17か条にその考えが記されている。刀や槍は名刀や名槍などに大金を使わず普通の槍をよく備えておくこと、合戦や城攻めでは吉日や方角などの吉凶に惑わされて攻め時を失うのは一番愚かな事で、詳細に虚実を図り臨機応変の策略を立てる事を第一とすることとしている。