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第1377話 大日本帝国陸海軍の問題点

序文・犬猿の仲

                               堀口尚次

 

大日本帝国陸軍

 大日本帝国憲法制定前はその定めが未だ充分ではない点もあったが、憲法制定後は軍事大権については憲法内閣から独立し、直接天皇統帥権に属するものとされた。したがって、陸海軍〈日本軍〉の最高指揮官は大元帥たる天皇ただ一人であり、帝国陸軍については陸軍大臣〈大臣〉・参謀総長〈総長〉・教育総監〈総監〉が天皇を除く最高位にあり〈直隷〉、これらは陸軍三長官と呼称された。なお、三長官には陸軍大将ないし陸軍中将が任命されるため、役職自体は帝国陸軍の最高位といえど階級自体は必ずしも最高位の者が就任するものではなく、特に歴代の陸軍大臣教育総監には陸軍中将が補職されることも少なくなかった。

 この三長官の補佐機関として、「省部」や「中央」とも呼称される陸軍省参謀本部教育総監部の3つの官衙〈役所〉が設けられており、陸軍大臣陸軍省〉が軍政・人事を、参謀総長参謀本部〉が軍令・作戦・動員を、教育総監教育総監部〉が教育をそれぞれ掌っていた。また、三機関の序列第2位の次席相当職として陸軍次官〈次官、陸軍省〉・参謀次長〈次長、参謀本部〉・教育総監部本部長〈本部長、教育総監部〉がある。

 昭和13年12月、航空戦力の拡張・独立および統率柔軟化のため陸軍航空総監部が新設。航空総監〈総監〉を長とし、主に航空関連学校など陸空軍の教育を掌った。第二次大戦最末期には航空関連学校〈一部補充学校を除く〉ともども軍隊化され、航空総監部は廃止、航空総軍に改編された。

 参謀本部は戦時・事変時に陸海軍の最高統帥機関〈諸外国軍における最高司令部に相当〉として設置される大本営において大本営陸軍部となり、大元帥の名において発する大陸命を作成する存在であるが、これをもって参謀総長がいわゆる陸軍最高指揮官陸軍最高司令官・陸軍総司令官に相当となるわけではない。なお、教育総監教育総監部〉は帝国陸軍の教育を掌握する建前であるが、憲兵経理・衛生・法務や機甲・航空、参謀・諜報といった特定職務に関係する学校等は、それぞれ陸軍省参謀本部・航空総監部やその外局の管轄である。

大日本帝国海軍

 軍政は海軍大臣、軍令は軍令部総長が行い、最高統帥権を有していたのは大元帥たる天皇であった。大日本帝国憲法では、最高戦略、部隊編成などの軍事大権については、憲法上内閣から独立、直接天皇統帥権に属した。したがって、全日本軍〈陸海軍〉の最高指揮官は大元帥たる天皇ただ一人であり、軍政については海軍大臣陸軍大臣天皇を輔弼し、一方、作戦面については天皇を補佐する帷幄の各機関の長、すなわち海軍は軍令部総長、陸軍は参謀総長がこれに該当していた。元々は軍政の下に置かれていた軍令が対等となり陸軍と海軍も対等とされたため、戦略がなおざりにされ「統帥二元」という問題が生じることとなる。一方がもう一方に従う必要がないため、効率的・統一的な作戦行動を取ることができず、作戦は常に双方に妥協的な物が選択されたのであった。諸外国の多くの軍隊のように、海軍総司令官、陸軍最高司令官のような最高位指揮官の軍職〈ポスト〉は存在しない。また、戦時〈後に事変を含む〉には陸軍と合同で大本営を設置した。

 日本はそもそも四方を海洋に囲まれている海洋国家であるため、日本海軍は西太平洋の制海権を確保することにより敵戦力を本土に近づけないことを基本的な戦略として、不脅威・不侵略を原則としてきた。また、一方でイギリス海軍に大きな影響を受けていたため、戦闘においては好戦的な姿勢を尊び「見敵必殺」を旨として積極的攻勢の風潮があった。

 海軍の戦略戦術研究の功労者として佐藤鉄太郎中将が挙げられる。明治末期から昭和にわたり海軍の兵術思想の研究に携わり、その基盤を築いた。明治40年に『帝国国防史論』を著述し、「帝国国防の目的は他の諸国とはその趣を異にするが故に、必ずまず防守自衛を旨として国体を永遠に護持しなければならない」と述べ、日本の軍事戦略や軍事力建設計画に影響を与えた。その一方で帝国陸軍とは関係が悪く、しばしば官僚的な縄張り争いによって対立を見た