ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1384話 青函連絡船

序文・津軽海峡冬景色

                               堀口尚次

 

 青函連絡船は、本州の幹線鉄道の北端の森駅と北海道の幹線鉄道の南端に位置する館駅間の連絡航路で、鉄道国有化後の国営の国鉄、戦後の公共事業体の国鉄ならびに民営化後の北海道旅客鉄道JR北海道〉により、運航された鉄道連絡船である。航路長は61海里、営業キロ上の距離は113.0 km、貨物営業キロ程300 kmであった。陸岸から最も離れる津軽海峡中央部でも20海里以内のため、就航船の航行資格は沿海区域であった。

 イギリスで建造された当時最新鋭の蒸気タービン船 比羅夫丸型2隻を擁して、国鉄直営航路として明治41年に開設されて以来、本州と北海道の鉄道を連絡する基幹ルートとして、客貨双方の輸送を担って来た。大正14年には、日本初となる大型車載客船 翔鳳丸型4隻による 鉄道車両航送を開始し、貨物輸送効率の画期的な向上を達成した。

 しかし太平洋戦争末期の昭和20年夏の空襲と、昭和29年秋の洞爺丸台風では、多くの尊い人命と連絡船を失い、そこからの復興に努めながら、その後の日本の高度経済成長を支える大動脈として、当時の最先端技術を駆使した連絡船を多数就航させた。昭和47年には、1日最大30往復もの運航をする最盛期を迎えたが、この頃から開設され始めた長距離フェリー航路の影響、大型ジェット旅客機の国内線への投入等による航空運賃の相対的低下、昭和48年秋の第1次オイルショックに続く景気低迷、さらには、度重なる労働争議による「国鉄離れ」もあって、昭和50年代以降は、客貨ともその輸送量を急激に減らし、減船、減便を余儀なくされながらも、昭和63年3月13日の青函トンネル開業まで、この基幹ルート維持の使命を全うした。

 「国鉄離れ」の加速で末期には閑散としていた。末期でも、青森ねぶた、函館港まつりの行われる旧盆、弘前・函館の観桜と時期が一致するゴールデンウィーク、年末年始などの最多客期には超満員となり、臨時便〈臨時客扱〉の運航や、乗船名簿に便名、または出航時刻をスタンプで押印した乗船名簿を配布する措置がとられることがあったが、通常期の利用状況は悪かった。