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第1385話 桜の木に漢詩を彫った児島高徳

序文・南朝の忠臣

                               堀口尚次

 

 児島高徳は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍したとされる武将。現在の岡山県倉敷市にあたる備前国児島郡林村出身。従五位下・備後守を賜る。

 元弘元年の元弘の乱以降、後醍醐天皇に対して忠勤を励み南北朝分裂後も一貫して南朝側に仕えた。晩年は出家し、志純義晴と号したという。正式な法名は志純義晴大徳位。

 江戸時代以降、南朝忠臣として讃えられ、国民的英雄のひとりとなった。その一方で具体的な活動を示す文献が軍記物語の『太平記』以外にはないために、近代的考証史学の観点から実在性を否定している学説も根強い。

 元弘2年、後醍醐天皇は、先の元弘の変に敗れ隠岐へ遠流となる。この時高徳は、播磨・備前国境の船坂山において、一族郎党二百余騎で佐々木導譽ら率いる五百騎の天皇護送団を強襲、後醍醐天皇の奪還を画策するが、天皇一行の移動経路誤判によって失敗に終わる。高徳天皇一行を播磨・美作国境の杉坂まで追うものの、その時既に天皇一行は院庄〈現在の岡山県津山市〉付近へ達しており、完全な作戦失敗の前に軍勢は雲散霧消してしまった。

 その際、高徳ただ一人が天皇の奪還を諦めず、夜になって院庄の天皇行在所・美作守護館の厳重な警備を潜り侵入する。やがて天皇宿舎付近へ迫るも、それまでの警備とは段違いな警護の前に天皇の奪還を断念、傍にあった桜の木へ「天莫空勾践 時非無范蠡天は春秋時代王・勾践(こうせん)に対するように、決して帝をお見捨てにはなりません。きっと范蠡(はんれい)の如き忠臣が現れ、必ずや帝をお助けする事でしょうという漢詩を彫り書き入れ、その意志と共に天皇を勇気付けたという

 因みに、朝になってこの桜の木に彫られた漢詩を発見した兵士は何と書いてあるのか解せず、外が騒々しい為に何事か仔細を聞いた後醍醐天皇のみこの漢詩の意味が理解できたという。

 この時彫られた「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」の言葉通り、翌年に名和長高ら名和氏の導きにより天皇隠岐を脱出、伯耆国船上山において挙兵した際には、高徳も養父・範長とともに赴いて幕府軍と戦い戦功を挙げたとされるが、その論功行賞の記録には高徳の名前が無く、児島高徳否定説の根拠とされている。