ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1386話 木曽五木

序文・御料林

                               堀口尚次

 

 木曽五木は、江戸時代尾張藩により伐採が禁止された木曽谷の木。ヒノキ・アスナロ〈アスヒ〉・コウヤマキ・ネズコ〈クロベ〉・サワラの五種類の常緑針葉樹林のことを指す。木曽節にも唄われている。

 木曽谷は95%が山林で、尾張藩はこの広大な資源である山林すべてを藩有林としていた。古くより木曽の山は建築材として貴重な木材を数多く産出していたが、関ヶ原の戦い後の江戸時代の初期、幕府や諸大名による城郭・城下町・武家屋敷の建設、造船などによって森林の伐採が進み、山々は荒廃してしまった。

そこで、木曽の山を管理していた尾張藩により森林の保護政策が行われ、ヒノキの伐採が禁止された。後に、誤伐採を防ぐため、ヒノキと樹形や材木の性質が似たアスナロ、サワラと、重要なコウヤマキの伐採が禁止され、さらにネズコが追加された。「木一本、首一つ」ともいわれるほどの厳しい政策の「留山(とめやま)・留木制度」がとられた。木曽において伐採が禁止され、保護された5種類の樹木を木曽五木という。しかし、厳しい保護政策にもかかわらず山の荒廃は止まらず、さらに尾張藩はクリ・マツ・カラマツ・ケヤキ・トチ・カツラも保護指定し、伐採禁止の地域や樹種を拡大させることによって、森林の保護に努めた。

その結果、美しい山を取り戻すことになった〈木曽五木に、ケヤキを加え、木曽六木とする場合もある〉。このような政策は、山々の荒廃に悩んでいた全国の藩の模範となり、各藩の政策に採用されていった。

 江戸幕府が倒れ、木曽住民は山林開放と停止木廃止を求めたが、明治政府は藩有林をすべて国有林とし、全国一律に国有林への立入を禁じたため、それまで許されていた明山への立入まで禁止となった。とくに木曽の山林は御料林〈皇室財産の山林〉の指定を受けたため、一切の立入が厳しく禁止された。そのため、山林資源活用に頼って生きてきた木曽の住民の生活は一気に困窮し、住民による請願運動が繰り広げられた。長年の交渉の結果、明治38年になって、政府は24年間にわたって毎年1万円の御下賜金〈天皇が与える金銭〉を下付することで紛争を解決した。

 島崎藤村は、木曽御料林事件、木曽山林事件と通称されるこれらの一件を小説『夜明け前』で触れているが、請願した主人公が懲罰として戸長免職となるなどは史実と異なると言われる。