序文・天皇を輔弼
堀口尚次
西園寺公望(さいおんじきんもち)〈嘉永2年 - 昭和15年〉は、日本の公家、政治家、教育者。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。雅号(がごう)は陶庵、不読、竹軒。
戊辰戦争において官軍の山陰道鎮撫総督を務め、フランス留学後には伊藤博文の腹心となった。第2次伊藤内閣にて文部大臣として初入閣し外務大臣を兼任、第3次伊藤内閣でも文部大臣として入閣した。第4次伊藤内閣では班列〈不任所大臣=担当のない国務大臣〉として入閣し、内閣総理大臣の伊藤博文の病気療養中は内閣総理大臣臨時代理を務め、のちに伊藤が単独辞任すると内閣総理大臣臨時兼任を務めた。
明治36年には伊藤の後を継いで立憲政友会総裁に就任し、明治39年内閣総理大臣に任じられ、第1次西園寺内閣、第2次西園寺内閣を組閣した。この時代は西園寺と桂太郎が3度にわたって交互に政権を担当したことから「桂園時代」と称された。
その後は首相選定に参画するようになり、大正5年に正式な元老となった。大正13年に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼(ほひつ)、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えた。また、教育にも尽力し、自らが創設した私塾立命館は現在の立命館大学の礎となった。
憲政の常道とは、大日本帝国憲法下の日本において一時期運用されていた、政党政治における政界の慣例のこと。
帝国憲法下において、首相の任命は、天皇が行うこととされたが、実際の選定は、天皇への結果責任が及ぶのを避けるため、首相が辞任するたびに、元老の合議によって人選され、推挙された人物へ任命〈大命降下〉が行われるように運用されていた。
大正末期、衆議院の二大政党〈立憲政友会および憲政会〉が自党の党首の首相就任を求めるようになり、また元老も続々と鬼籍に入ってきたこともあって、人選の基準を機械的に行うようにして、ゆくゆくは元老不在になっても自律的に首相の任命が行われるための慣例が、西園寺公望元老の主導で行われる。