序文・義民
堀口尚次
安政の泣き一揆は、安政5年7月11日夜、加賀国で起こった一揆。向山〈卯辰山〉から金沢城に向かって米の開放を求めて叫んだことが特徴的である。
この年は、冷夏や長雨などの自然災害による米の不作があった。それをうけての買占めや売り惜しみにより、米の価格が高騰していた。そのため、庶民の生活は困窮した。
7月11日の夜、約2,000人が向山〈卯辰山〉に登り、城に向かって米の開放を求めて叫ぶ。卯辰山から金沢城まで直線距離で1.7kmあり、風に乗った声は山下の重臣屋敷や城の殿様にも届いたという。翌日、藩の御蔵米500俵が放出され、米の値段も下げられる命令が出された。
事前の断りもなく直訴をすることは重罪であったため、首謀者7名が7月26日に捕縛された。5名が打ち首、2名が獄死した。この7人の霊を祀るため、卯辰山の山道に七稲地蔵を建立し、明治41年に浄土宗寿経寺に寄進されて山門前に安置された。地蔵の他に墓碑と説明板がある。なお、寿経寺の門徒は武家であり、武家が七稲地蔵を引き受けたといえる。
江戸時代に入ると仁政〈恵み深い、思いやりのある政治〉と武威〈武力の威勢〉の二つの政治理念の下で、人々は暴力を封印し、幕藩領主に恐れながら訴える訴願が有効と考えられるようになった。『編年百姓一揆史料集成』で江戸時代に日本全国で発生した百姓一揆〈徒党・強訴・逃散〉と打ちこわしを調査したところ、武器の携行・使用があった事例は14件〈0.98%〉しかなく、14件のうち18世紀に発生したものは1件しかなかったことが明らかになっている。
特に江戸初期には要求を通すためには武装蜂起よりも訴願の方が有効と考えられ、暴力・放火・盗みなどを禁じる百姓一揆の作法が創られ遵守されていた。そのため「百姓一揆とは、同時期のアジア・ヨーロッパに例を見ない、江戸時代特有の社会文化であった」という指摘がある。
当時一般の百姓が「武士は百姓の生活がきちんと成り立つように良い政治を行う義務がある」と考えており、政治参加や体制変革の意識自体がなかったため、百姓一揆は反体制運動ではないことを指摘している歴史学者もいる。